(続き)入管・国体・外国人・国家理念

国家は多様な意見や主体を統合する意思決定機関である。その内容はといえば、膨大な書類と法規によって構成されている。
 しかるに、「国体」すなわち国のかたち・形式・輪郭がどこで見えるようになるかといえば、ひとつにはネグリ問題でより広く認知されるにいたった入国管理制度の対応である。
 入国管理制度についてこんなサイトもあった。
http://www.immigration.jp/

判例データベース」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~gyosei-i/page007.html
こちらに、「基本的人権・人権の享有主体」としてまとめられている。
コラージュ事件は天皇の人権に関するもの(富山地裁判 平成10年12月16日:判時1699号120頁)。
 外国人に関するものとしては、マクリーン事件、外国人不法入国事件、不法出国事件、森川キャサリーン事件、塩見訴訟などがある。

 さてまあ、ファーガソンと帝国という話の続きでいえば、こうした入管・国体・外国人問題をどう考えるか。
 ファーガソンがいう意味でも、日本はいまだ「帝国」にさえなれていない。ならなくてもいいというのも正論だが。
 だが、否応なく、日本は、まだしばらくの間は、世界から期待されたり要請されることもある。もし外国人が日本にまったく訪れなくなった場合、そのとき、日本は死んでいるはずだ。
 だから、まとめると、アメリカに準じろということではないものの、やはり日本は国家の理念型を持たなくてはならない。
 理念型がないから、いつまでもその場しのぎの話で終わる。批判される側の国家はもちろん、国家を批判する側においても、そうだ。
  
…それにしても、やるべきことが多すぎる…