最悪なる世界への希望

 このフーコーの文をいかに読むかは当然のことながら様々であろうが、やはりこれはひとつの希望の原理として読みたい。
 現実に生起する出来事を見れば見るほど、世界はますますひどい方向に向かっているように見える。
 しかし、考え方次第では、これまでもひどかったわけだし、そのもっと前も、ひどかったのだ。つまり、ベケットの語句のように「いざ最悪の方へ」行かなくとも、ずっと「ここ」は最悪だったのだ。
 歴史や文明論や人類学、あるいはニーチェフーコーの系譜学などを踏まえていくと、さまざまな存在物の偶発性をいやというほど見せられ、おかげで耐性ができる。
 それはひとことでいえば、「無常」であるが、いまふっと思ったのは、ニーチェのいう「生成」には、仏教の生々流転が入っているな。マックス・ミュラーニーチェとの関係についても、と思ったら、ショーペンハウアーじいさまがいたのだった。
 ショーペンハウアーはたしかフーコーも面白いといっていたし、またベケットも、「いまショーペンハウアーを読んでいるといったら、みんな笑うが、面白い」と、どこかでいっていた。