抵抗点について

権力のあるところに抵抗がある。にもかかわらず、あるいはむしろそれがゆえ、抵抗は権力に対して外側に位置しない。…権力関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在しない。
 …可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している、這って進むかと思えば、暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。
 …可動的かつ過渡的な抵抗点は、社会の内部に、移動する断層をつくりだし、統一体を破壊し、再編成を促し、個人そのものに溝をほり、切り刻み、形を作りかえ、そうして個人のなか、その身体と魂の内部に、それ以上は切り詰めることのできない領域を定める。
 …そしておそらく、これら群れをなす抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ。国家が権力関係の制度的統合のうえになりたっているように。

これらが、フーコーの権力論の根幹であり、いわば原理的に説明したものだ。
 このような考え方によって、長い間政治思想を幻惑してきた「法である主権者」というあのシステムから脱却できるだろう、ともフーコーは述べる。
 ちなみにここでフーコーは、マキャベリを、「君主の権力を力関係という観点から考えた数少ないひとのひとりであった」とも述べている。
 
 このフーコーの「抵抗点」のヴィジョンは、もはやすぐにわかるように、のちにネグリとハートがマルチチュードとして展開するものの基礎をなしている。というか、マルチチュードは、フーコーが述べた抵抗点に対して、あらたに名づけなおしたものである。