包摂的戦略と平和理論

日本は政治論理的に戦争という外交手段を選べない。し、日本、朝鮮、中国、ロシアで戦争になったら、どれだけの悲劇になるかは目に見えている。
 だから、国家戦略としては、ひとつには、平和理論を先鋭化させることが、いいだろう。とはいえ、すでに英米帝国主義も平和理論を基礎理論として、というかそれを根拠に、いろいろやってるわけで、だが、それらとは別の独自の理論を打ち出すことは、当然可能である。それはなにも、NO!WAR!と馬鹿みたいに叫ぶことなどでは決してない。もうそんな叫びがなんの効果もないこと、そして多くの場合、というかほとんどの場合、それが自分の良心を慰めるためだけの効果しか持っていないことにいいかげん気づいた方がいい。というか、最近はもう聞くこともないが。
 だれかも書いていたが、ソーンのような包摂的な視点であの戦争についてあらたに書かれることは必要である。
「国民の歴史」などは包摂的どころか、あまりに視野狭窄である。ただ、彼らのそれまでの伝統左翼批判の多くは正論であるのもたしかである。だからまあ、過渡的なものとして、ああいうのはアオフヘーベンされて次に行かなくてはならない。
 包摂的な、歴史的な、長期的視点のなかでの歴史的反省を行い、そして中国、ついで統一後の朝鮮と、対話をしていくのが必要である。
 私がいいなと思うのは、考古学調査を進展させることで、互いの隔たり感覚が変わるのではないかと思う。
 まあ、春秋戦国時代は、歴史の学習としては面白いのだが、あれを参考にしてしまうと、戦争しかないじゃん、みたいな話になってくるのであれだが、しかしまあ。
  米国をおそれることももはや必要もないし、中国はといえば、たしかに、これからますます重要な決断を迫られる。
 結局、物理的な国土の面積というのは、どうしても大きくて、島国日本は、同じ島国英国のように、戦略でしか勝負できない。
 むろん、戦略とはいっても、なにも国際的に華々しく暗躍することも必要もなく、先の記事でも書いた「小国主義」で、社会内部を進化させるといったことである。
 ここからさきはまたもぞろぞろ細かくなっていく。