若松孝二と「実録・連合赤軍」

和光大学若松孝二監督の最新作「実録・連合赤軍」のティーチインに行く。
 久々の鶴川は小雨が降っていた。メイキング映画が放映されたあと、若松監督の重厚な話がある。そのなんというか、経験のヴォリュームがさすがにすごかった。
 この時点ではまだ私は「実録・連合赤軍」を見ておらず、翌日に新宿に見に行くのだが、見ていなかった理由に、「できることなら見たくない」という気持ちが働いていたのも確かだった。そのことは、映画本編をすさまじい衝撃とともに見終わってから、再認されたことだった。映画本編についてはあとでまた触れる。
 ティーチインのあと、松枝さんの研究室でしばし屯し、打ち上げに行く。すると、偶々なのだが、若松監督の向かいの席に座ることになった。まさか若松孝二という神話的な人物と飲むことになるとは予想しておらず、しかも本編を見ていないという気後れもあって、さすがに緊張してしまう。が、いろいろお話をすることができて、とても幸福な時間を過ごすことができた。
 若松監督の言葉はそのほとんどが正確で、ぶれがないのが印象的だった。
「いくら映画とっても、人間がとれていないとだめだ」
「(映画をとるようになったのは)出会いだった」
なにから「ぶれていない」かといえば、それは「人間」である。その無骨で、いわば直接的な「人間主義」に、感嘆せざるをえなかった。
また、若松孝二という人物の印象を一言でいうと、「仁」である。この古代的な高貴な倫理を持っているひとはなかなか少ないものだが、その仁をまさに自身の人生において貫き通したということが、たたずまいすべてに感じられた。


若松監督の映画は正直まだ数本も見ていないが、弟に見せてもらった「ゆけゆけ二度目の処女」は、まさに天才的な傑作であると思われたのだが、私にとって60年代から現在にいたる日本は、なんというかトラウマ的な存在で、最近はながらく向き合うことがなかった。それはいわば「革命外傷」とでもいうべきもので、私なりに極私的な思いがある。

 そして、翌日、「実録・連合赤軍」本編を見て、私の抱えていたある絶望感、閉塞感、その他もろもろの否定的な感情が交錯した、私のなかに長い間住んでいる文字通りの「コンプレックス」つまり感情複合体の正体がなんであったのかを見つけたような体験をすることになる。
 
 若松監督本人と出会うという、しかも飲み会に列席させてもらうという、「ティーチイン」という意味ではありうる限り最高のティーチインの翌日、本編を見たという、この流れそれ自体がやばかったのかもしれない。
 
 この映画は、私がこれまで見た映画のなかで、最も恐ろしい映画である。あまりに恐ろしくて、いまはまだ思考能力がうまく働かない。恐ろしいことの理由は、この映画が圧倒的な描写力で記述する出来事が、いま現在の日本のリアルな問題であり、つまり私を含めたわれわれの現在の問題であるということにある。(続く)

・映画として傑作であるのみならず、すべての日本人が見るべき映画である。

 「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
テアトル新宿で5/9まで通常上映で、それ以降は一日一回上映となる。
http://www.cinemabox.com/schedule/shinjuku/index.shtml
また順次ロードショー。詳細はhttp://wakamatsukoji.org/

ゴールデンウィーク」というグローバルスタンダードからいえば意味不明のこの茫洋とした時期にこそ、見るのがいいと思う。ただし、精神的衝撃を受ける内容なので、肝っ玉に自信のない方々は見ないで、静かに余生を過ごすのがいいだろう。