1.モメント(ロバート・ベラー)

タルコット・パーソンズに学んだロバート・ベラーの「徳川時代の宗教」を荻窪ささま書店で300円で買ったのだが、amazonで調べたら6000円とかついてた。ま、amazonの古本の値段は、なんというかこのようにすごいことがままあるので(実際、この値段で買うひとはいるのだろうか?)、そしてそれはおそらく、「この本はこんだけ価値があるんだよ!」という思いをパフォーマティブに示したいということなのだろうけど。
 それで同書店にあった同じくベラーの「破られた契約 アメリカ宗教思想の伝統と試練」未来社(こちらは1260円)を立ち読んでいたら、これは傑作じゃないかと思われ、それからマックにいって、ぱらぱら読み続けていたら、やはりこれ傑作だろうとまた思い、これ、「心の習慣」の前提だなと思う。
 アメリカの起源神話、アメリカの選民思想、とかアメリカにおける社会主義のタブーとかの章立てになっていて、パラパラ見れば見るほど、猫夢中になる。
 メルヴィル詩編クラレルも分析されており、はよゆっくり読みたいが、集中して時間がとれんちゃんね。
 英語原文The Broken Covenantは、(http://www.robertbellah.com/)のpublicationsからunauthorized web versionで読める。

その後のビブリオグラフィーを見ると、ずうっと「市民宗教」を論じとる。

 
 ま、それはともかく、なんでこんなに亢奮するかといえば、ここ数ヶ月、<帝国>の起源と枠づけて、そのなの通り、「起源」を漁っとるけんや。
 まあ、とにかく、なにやら面白くて、なにが面白いかといえば、現在の世界情勢、つまり諸<帝国>の力関係、駆け引き、覇権争い、そういったダイナミクスの下絵が見えてきて、なんとまあ、数百年から、結局、なんも変わっとりゃせんっちゅうことや。

 ということで、この「<帝国>の起源」企画のための基礎文献にこのベラーさんが入ったということで。それをもって、ここで継続していくモメントとするということで。つまり、ブログならではのブロークン体で。

 まあいまはまだイギリスと日本を集中して漁ってきたわけで、そのイギリスの方面では、デイヴィッド・アーミテイジ『帝国の誕生 ブリテン帝国のイデオロギー的起源』日本経済評論社が出色。これについてはまた後。
 
 昨年末、オーストラリアにいって、それは認識を深めるという意味では大変有意義な経験となったんやけども、それはなにより、イギリス帝国、ま、英語圏帝国、ブリティッシュ帝国、ないしアングロサクソン帝国、ブリテン帝国とでもいえばよいか、その巨大さを知ったということである。

 オーストラリアは独立宣言してないので、なんとなくいまもやはりイングランド帝国の一領土だし、独立したアメリカにしても、そしていまのオバマ大統領が就任演説で「敵」としてのイングランド帝国を想起しようとアメリカの「初心」=原型=建国の理念を再認したとしても、国語がフランス語に変わることなんてありえないわけで、その意味で英語圏帝国といえ、つまりはアングロサクソン帝国の一つに違いない。
 さてほかカナダ、南アフリカとかももちろんだが、シンガポール、香港、マレーシア、フィリピンとか、カリブ諸島とかまあ、とにかく「英語圏帝国」ということで数えてみれば、実にいまだに世界の4/1か3/1はそうなんじゃないか、と考えられる。
 そうしてインドやバングラデシュに関しても、イギリスにおけるサルマン・ラシュディやダンサーのアクラム・カーンの扱いを見ても、いかにも「こんだけイングランド帝国は多様&寛容だ」というメッセージを潜ませつつ、いかに上手に英語圏世界に取り込むか、で戦略とっているのがみえみえなのであるが、そうしてインドもまた、たしかにその意味では英語圏ともいっていいのかもしれない。
 
 オーストラリアの友人の部屋で見た歴史地図帳の19世紀の頁には、中国、そして日本にも、大英帝国のフラッグがたっていて、一瞬ぎょっとしたが、たしかに明治維新はハリー・パークスなしにはありえなかったわけだし、日本国内では、明治維新の真実すら見つめることをタブーとしているという。右であれ左であれ、いずれもここを見てるひとは少ないわけで、当時の日英同盟がいまの日米同盟と相似的であるということは、まあ、わかってるひとはわかってるのだが、どうもごちゃごちゃしてますわね。いや、おいでなく、「歴史の像」が。自分の像があやふやだから、不安で、だから、安心したい。心を安らかにしたい。そんで、ベラーじゃないけど、不安を補填するために、伝統なりなんなりが要求されるのだが、実際に必要なのは、<帝国>の歴史の研究じゃなかろか。
 それをせんかぎりは、まあ、当然、いまのごと、外交とか交渉とか死んでもできんやろね。ハスミン翁が中央公論でいいよったけども、外国語や外国の文化や歴史を勉強するのは喧嘩するためだといいよったけど、そういうことや。
 ま、喧嘩っちいわんでも、議論たいね。ま、喧嘩するくらいせんとね。そこはチャベス先輩を見習うべきや。
 
ま、ずっとこの間、集中してやりよったら、情報知識が集積されすぎて、吐き出そうと書きよったばってんが、まあ、やっぱ論文書きは性にあわんかな。飛べんけん(時間のフライングby内田樹)、まあ、たとえば、語の定義論とかにひっかかったりして、そうなると、もう歴史の旅は終わるっちゅうに。
 やけん、いまんとこ、理論はあとにせんといかん。
 というんで、やっぱフーコーは実証と理論とをようやったばいねとあらためて思うんです。