円安というイデアから未来主義へ

最近の日本政治のパフォーマンスを観ていると、オペレートルームの闇のなかで演出家たちがなにをイデアとしているのかがわかった気がする。日本の政治=国家劇場において混乱と道化を上演表象することで、観客(世界のウォッチャー)の不安を引き起こしたいのである。そうしてその不安はきっと「円安」というイデアを現働化してくれるだろう、というシナリオである。
もしこの解釈が正しいとするなら、私はそのシナリオの前提となっている状況認識に対して異議をいいたい。
状況認識とは例えば第一の業界である自動車産業界でいえば、インドのタタモ−タ−の17万円自動車や中国自動車の勢力への脅威感である。他方イギリスやイタリアの自動車メーカーはSF的な未来主義的な、驚愕のデザインを出して来ている。むろん日本のメーカーも新しいデザインを出しているが、どうもインパクトに欠ける。
日本の自動車メーカーは価格競争においても、またス−バ−ブランド化戦略においても劣勢に見える。
オ−ストラリアでは半数が日本車だったが、印象的だったのは、「TOYOTA」となにか妙にデカく後ろにかいてあるトラックとマツダのえらく格好よく見えるMX5(ロードスター)だった。トヨタがダサくてマツダがオシャレということではない。
彼の地における「日本車」の映像のことである。そしてそれは日本における「日本車」の映像とはだいぶん異なる。とりわけかの「TOYOTA」のトラックは日本では見たことがない。あれはおそらく「外国仕様」なのであろう。そしてまあおそらくはリ−ズナブルな価格で故障が少なく丈夫なのであろう。それはひとつの戦略だし、事実、これまでそれに限らない戦略を組み合わせてやってきたことは古典的ともいえる成功の事例だろう。
そうした日本の輸出産業はいわば「ミドル路線」だったといえる。超高級車でいくスーパー・ウルトラ路線でなく、あくまでミドルな品質。そうした「ミドル」がスーパー日本企業を作った。
現在の金融危機は、以前の記事「マルクスアメリカ」で書いたように、「資本主義はその最も発展したところから崩壊する」というマルクスシュンペーターのテーゼの現実化なのかもしれないが、今のところ明らかになっていることは、もはやこれまでの戦略・思考様式は通用しないだろうということだ。
 
 …以上は携帯端末より。

 さてまあこちゃこちゃ書こうかとも思ったがめんどうくさくなったので、一言でいうとこれからはランボルギーニ・ムルシエラゴLP640のような車を作っていくべきではないかと思ふのである。
まあこういう感じで世の中はますます未来主義へ。
 

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http://wiredvision.jp/ほかより。