イーストウッドと「政治的生活」

またもクリント・イーストウッドがすごい映画を作った。
チェンジリングhttp://changeling.jp/

もうあーだこーだいいとーないね。
硫黄島からの手紙」&「父親たちの星条旗」にせよ、「目撃」にせよ、以前よりもそうであったのだが、とにかく今回もまた、イーストウッドの義憤が。そして、国家=政府や警察の権力腐敗を容赦なく描き出す。(思い出すのが、「L.A.コンフィデンシャル」も警察の腐敗を描いていたような気がする。)

チェンジリング」の素材となったのは、実際の猟奇事件「ミラ・ロマの殺人農場」。その事件については、映画秘宝2009、3月号にのってる。やばい。猟奇事件もそこそこ知ってるが、まあ変態性愛がらみではこれは相当。
 イーストウッドは気品あるがゆえ、そのあたりの変態性は暗示的にしか描かない。し、主題は猟奇性というより、むしろ権力の腐敗の問題である。そこがすごい、良識だと思う。パンフレットで黒沢清が書いているが、主人公の絶望のあまりの「言語喪失」状態をこのように描いたのは、アメリカ映画史上、はじめてではないかとのこと。

アガンベンハイナー・ミュラーのいう「収容所社会」…。「安全」の名の下に言語と身振りと社会的生活を喪失していくゾーエー=生物的生存としてのみ「生きる」ことを許される。「安穏とした市民の生活」は基本的に圧倒的な暴力装置を基盤としてはじめて許されている。そして「市民」も潜在的にはつねにゾーエー的状態に「生きる」ことをもとめられている。そうした「市民社会」のふだんは潜在している姿を、このような事件=出来事はあらわにする。

最近のイーストウッドの壮絶な修練を老いてなお持続しているのを見るにつけ、翁はアガンベンなんぞ当然のごとくに読んでいるのかもしれないが、すくなくとも、イーストウッドは問題のありかを完璧に理解していると思われる。

「セキュリティ」を求めてなにが悪いの?警察の方々は命をかけて市民を守ってるのよ!

といって議論を封鎖する方々は、まず見るべきだ。といって、見ないだろうが。

考えてみれば、自発的に「服従・従属」する主体にとって、「社会」だの「市民」だのうんたらかんたらの理念=イデアは、まったく必要ないのである。「社会的生活(ビオス)」などわけわかめ、「生物的生存(ゾーエー)」さえ確保してもらえれば、それでよいのだ…。

市民社会」のイデアからすれば、「政治的生活(ビオス・ポリティコス)」を求めることだけが、ひとを「市民的主体」とする。このことがいつだって普遍的に人間社会にとって喫緊の課題であるということは、絶望あるいは「究極的挫折」(R・ベラー)に直面し、それにさらされながら、「それでもなお」と思うことのできたひとだけが、そして「国家宗教」あるいは「市民宗教」の網のなかで、なにも信じることができないがゆえに、いくつかの少ない「希望の原理」を、求めようとする傾向を持つこのできたひとだけが理解でき、そしてそのような主体をもってはじめて「市民」といえるのではないか。「チェンジリング」においてイーストウッドはそのような「市民」の裸形のイデアを指し示す。

エティカル(倫理的)なイデアはともすれば、たとえば「エチケット」とか「マナー」という具合に、矮小化され、「世俗化」され、「配布」される。森羅万象がラッピングされパッケージングされてき、いまもなおそのように進展していく動向のなかで、イデアを裸形にすることはとりわけ困難である。イーストウッドは一見、それをいとも容易に遂行するわけだから、もはや天才というべきだろう。

しばしば「危機」や「不安」は捏造される。それはあたかも「広告的」な表象である。ハイデガーは「芸術作品の起源」のなかで、隠されたものを露にすることを真理の作用とし、ゴッホの靴の絵で滔々と刺激的な論を展開するのだが、「チェンジリング」のドラマ(劇)において、さもしい権力の策略によって偶々すべてを奪われた主人公の忍耐と少数の志士によって、まずはドラマのなかの事件の真理が露にされ(通常はここで終わる)、さらにそうした事件のいわば「個別的な真理」をあえて否認することで、主人公は生涯をかけて絶望を引き受ける。このことによって、絶望の引き受けが、逆説的に「希望の原理」と転化する過程がしめされる。そうした引き受けを、「隠されたものを露にする真理」への意思といってよいだろうか。むしろ主人公の行為は、「個別的な真理」つまり「一意的な真理」をわざと宙ぶらりんにすることで、「真理」を多義的なものへと分散させることで、「市民」が分有できるようにした。
 これこそが、映画「チェンジリング」のなかで開かれる事態であり、それがゆえに、つまり、そうして、「真理」はすべての「市民」に開かれるのである。
 「真夜中のサバナ」ではギリシア神話のテミスのような、天秤を持つ女神像がはじめと終わりにあったように覚えているが、そのことをともに考え合わせると、「法」のイデアの指し示しから、「真理作用」の分有へと、イーストウッドは微妙にスタンスをずらしてきたのかもしれない。「真夜中のサバナ」では事件の真実は、観客という「神的存在」=判定者以外には、示されない。あるいは「亡霊」を実体的に出していた。あの映画でのそうした演出にも、むろん魅力がある。だが、たとえばあの映画においては、今回のような「分有」は提起されない。
 「硫黄島」二部作では、日米両国家に翻弄される若い兵士たちが主題だったし、太平洋戦争をはじめて複眼的に描いた映画として類を見ないと思われるが、今回のような「分有」ではなかった。「ミリオンダラー・ベイビー」も、すさまじい苦悩が崇高化され、あれも本当にすごいが、やはり今回のような「分有」ではなかったと私には思われる。
 おそらく、こうした「真理」への分有を提起するためには、あの「絶望」への徹底的な、しかし方法的な「内在」が今回おこなわれたとみるべきだと思う。それはたとえば「ミリオンダラー・ベイビー」の登場人物マギーの苦悩に内在しようとしたことから、到達した次元であると思う。「ミリオンダラー・ベイビー」はキリスト教保守派から安楽死問題として矮小化され、かなり問題化されたようだが、そのことへの批判的反省も反響しているのだろう。「絶望」への内在は、ときにヴィルヘルム・ハンマースホイの室内画を思わせる。アメリカの古典的「風景」といえばアンドリュー・ワイエスやホッパーの屋外の絵を思い出すが、それとは対極にあるのはもちろんだとしても、あるいはマーク・ロスコの超越論的な内在とも異なり、社会のエティック(倫理)に容赦なく、ただひたすら内在することによって、超越論的な契機としての「亡霊」的な装置や歴史主義を注意深く避けることで、「分有」つまり分ちあうということを、「芸術」という「労働」のなかでイーストウッドは遂行しえた、と思う。
 つい、こちゃこちゃ考えてしまったが、ようするにこの映画は必見ということ。