4.年表3月26日版(一)

<帝国>の起源 年表09.3.26版。

■9cフランク王国、欧統一843三分割(西フランク→仏、東フランク→神聖ローマ帝国[962-1806]・独、中フランク→伊)
■1016デンマークヴァイキング・デーン人)のクヌート、イングランド征服:デーン王朝(北海帝国)。のち1043年エドワード懺悔王戴冠でアングロサクソン王朝復活するも、その義弟ハロルドに対し1066ノルマンディー公ギョームとノルウェーが異議により侵攻:ギョーム英王に:ノルマン朝:ギョームは英王でるが仏では臣下→百年戦争の遠因。また、征服王朝であるため王の権限が強く、英国での絶対王政の遠因に。1154仏からヘンリー二世:プランタジネット朝→仏王とまたも関係悪化。プラ朝3代王ジョン、仏フィリップ二世と抗争、大陸領土喪失→無能な王の強権を制限する動き→1215マグナ・カルタ
◆十字軍(1095〜1244):セルジューク帝国によるエルサレム占領に際し、ビザンツローマ帝国連合軍(十字軍)がパレスチナ侵攻(1096)、十字軍国家を建設。以後、二世紀続くが、ペストの流行などによって西欧勢力は撤退。1244イスラムエルサレム奪回。1248ルイ9世、サラディン二世(アイユーブ朝)に敗北。→欧州側がエルサレムを確保した期間は1099-1187,1229-1244。以後20世紀までイスラム支配下。しかし戦争によって西欧商人とイスラム商人との交易が展開し、ビザンツ、イタリア諸都市国家は発展。<十字軍→ルネサンス
モンゴル帝国(13世紀〜15世紀:1206−1634)
1220 チンギス、ソグディアナ再建のため行政機構整備
1225オゴディ「帝国の征服は馬上でできた。だが馬上では統治できない」→
1235 オゴディ=ハン、南宋とキプチャク草原・欧州方面への二大遠征を決定。
1271 クビライ、大元ウルス建国。
1301 大元ウルス、チャガタイ・ハン国キプチャク・ハン国、イル・ハン朝による連合王国体制へ。パクス・モンゴリカ(パクス・タタリカ)。1351紅巾の乱(白蓮教)、1368朱元璋、明建国。大元ウルスは北走、以後、北元とよばれる。これをもってモンゴル帝国は終わるわけではなく、イラクのジャライル朝や、1370に建国されたティムール朝(後身ムガル帝国)など、様々な継承帝国が続く。なおチンギス統原理(Chingisid Principle)という王権の正当性に関する血統原理思想は、黒海クリミア半島では1783まで、ホラズムでは1804まで、インド亜大陸では1857まで機能。
オスマン帝国(1299‐1923):15世紀,モンゴル帝国衰退し、オスマン台頭。1453 コンスタンティノープル占領、ビザンツ帝国を滅ぼす。→キリスト教徒は迂回し、東方にキリスト教の同盟者を求(ベイリ『イギリス帝国歴史地図』p21)
1512セリム一世、エジプトのマムルーク朝併合。メッカとメディナの保護権を掌握。
1522 スレイマン一世、海賊だった聖ヨハネ騎士団ロードス島から駆逐、東地中海の制海権を掌握。
1526 モハーチの戦いでハンガリーを併合。1529ウィーン包囲。1538プレヴェザの海戦で地中海全域掌握。またアチェ王国の要請でオスマン艦隊はマラッカ海峡まで行く。1571レパントの海戦でスペインに敗北。しかし戦後も依然として強勢であり、キプロスチュニスを獲得していく。1645ヴェネチアとの戦争。1683第二次ウィ−ン包囲でヤン三世らの同盟軍に破れ、16年間の戦争へ。1699カルロヴィッツ条約で東欧の覇権をオーストリアに奪われる。大北方戦争(1700-21)でスウェーデンのカール12世側につくが、苦戦。1774ロシア南下により、1792クリミア半島はロシアへ。
ポルトガル、スペイン:15世紀半ば、レコンキスタを達成。反イスラム民族主義が高揚、中央集権制度が確立。は国土回復運動の延長として海外版図拡張政策。新航路の開拓のたびごとに莫大な貿易の利益。スペインと領有権を巡り折衝、デマルカシオン=異教世界の二分割、貿易権、原住民奴隷化権、布教独占権をポルトガル教皇勅書で承認される。ポルトガルイエズス会、スペインとフランシスコ会が結託。
宗教改革によって西欧は内戦状態。宗教革命によって旧教に追われた新教徒が海外に進出する。他方、ローマ教皇プロテスタント対抗として信者獲得のため宣教師を船に同伴させる。→アジア進出の十字軍的性格(佐々木「江戸時代論」P110)→オスマンと新教への脅威、そして新しい富の獲得が東進の動機。「霊魂と胡椒を求めて」
※インド・中国・日本は旧教にとって憧憬の土地:東方主義1)創世記の「東方のエデンの園」伝説2)聖トマスのインド布教伝説:ネストリウス派3)プレステ・ジョアン(プレスビュテル・ヨハネス)伝説:東方三博士のひとりないし子孫:オットー・フライジング年代記』(1145)
※ヴァリニャーノ『東インド巡察記』§2:インド人はみじめで卑劣で黒人種、無知邪悪、アリストテレスのいうように(『政治学』の先天的奴隷)他人に奉仕するために生まれてきた/日本人は白人種。洗練され礼儀正しい。→インドや中国での布教の困難にくらべ、日本は布教がよく展開した。のちキリシタン弾圧により、日本人は残忍という言説が流布。またこの時期にすでに白人人種主義が台頭している。
ポルトガルは、インド航路構築(1498)以後、1509ディウの海戦でインド洋制覇。ついでマラッカ占領。以降、ポルトガルはインド、東南アジアに侵攻。このころ東アジアでは倭寇。ルターが提題した1517、明に入国。1543年、種子島ポルトガル人が来、日本へ鉄砲を伝える。67年には長崎に来航。
■スペインはポルトガルに対抗し、メキシコ(1519)、アステカ(1521)、インカ(1533)を征服。1520年代はカルロス一世による絶対王政。マゼラン、モルッカ諸島航路を探検後、フィリピンで殺害。1565、フィリピン征服。南米から銀が大量に流入。1580年スペイン、ポルトガルを併合。
※在日宣教師による出兵要請 ※商人・宣教師、日本人を東南アジアに売却。
イングランドブリテン帝国
1215 マグナ・カルタ:ジョン王が仏に敗戦&増税→貴族激怒→減税など王の権利を制限。
1277〜82エドワード一世、ウエールズ征服。
1292 エドワード一世、スコットランド侵攻。
1296イングランドスコットランドを併合→1306独立回復。
◎1337百年戦争(〜1453):仏カペー朝断絶で、エドワード三世仏王位継承を主張、仏へ侵攻。当初はエドワード黒太子活躍で仏の半分を占領。のちシャルル七世とジャンヌ・ダルクによってイングランド撤退→薔薇戦争→諸侯疲弊・王権強化→絶対君主(テューダー朝1485-1603)/フランスでは宗教戦争→統合後、絶対君主(ブルボン朝1589-1792)
ブリテン帝国のプログラム:プロテスタント的で商業的で海事的で自由な帝国(以下アーミテージ
・1540年代の「ブリテン問題」→イングランドスコットランドの論争
イングランド側の根拠:ジェフリ・オブ・モンマス「ブリタニア列王史」(1136)イングランドの優位
スコットランド側の根拠:ポリドール・ヴァージル「イングランド史」(1534):ブルータスの実在への疑義。
ブリテン帝国のローマ的起源(帝国の神話):ブルータス神話:トロイア戦争の亡命者ブルータスによる創建、ブルータスの三人の息子の時代に複合君主国となったから、「帝国」である。
ローマ帝国におけるimperium
1:公職者の権威(内部の支配権imperium domiと征服地への支配権imperium militaeという区分)に限定されていた。→やがてローマの成長とともに外へ膨張。公職者の権威が持っていた制限、「内部の支配権/征服地への支配権」や市内/外の区分を失う。
2.無制限の権威→ローマ市とその植民地・属州が単一の領土的統一体となる。
3.公式の領土への完全不可分の権威→中世でインペリウムは「完全に独立した権威、領土の統一体、支配の根拠」を意味するようになり、後の政体にとっての一般的で適用可能な先例となる。
 教皇制は領域性にしばられないためより普遍的と考えられていたが、諸君主国家が個別に「インペリウム」を求めることは、国外の普遍的勢力つまり他の国家と教皇制に敵対した。いわばローマ帝国の相続争い。
※近世において国家形成と帝国建設とは明確に区別できない。近世国家はのちに帝国を構築するのと同じ方法(征服、植民、同化)で建設された。
※やがてブリテン帝国は分裂し、統合的な複合君主国というより連邦的な多元的王国としての特質を持つにいたる。この連邦的・分裂的特質はアメリカにも継承される。1763七年戦争で勝利→イギリス覇権。1783には米独立で英帝国分断。
大英帝国の基礎はプロテスタンティスム
◎帝国的健忘症:歴史家シーリー1881「われわれはあたかも無意識状態で世界の半分を征服し植民してきた」

■オランダは重税への反発と(利潤追求を求める)カルヴァン派により1568オランダ独立戦争(八十年戦争→1648独立承認)。ネーデルラント連邦共和国(1581−1795)は17世紀より東インドに進出し、ポルトガルから貿易ヘゲモニーを奪い、オランダ海上帝国を築く。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆日本 :2世紀倭国大乱 3世紀ヤマト王権 4世紀 倭国は半島より鉄輸入 
5世紀 経済発展を遂げた倭国、鉄資源を求めて半島進出:391 百済新羅を破り、397百済、倭と結ぶ。399倭、新羅侵攻。翌年金城占領。高句麗新羅を支援し南下、倭軍は任那加羅に退く。402 新羅、倭と結ぶ。404 倭、帯方界まで侵攻。腆支王、倭により百済王として即位。/倭の五王、中国に朝貢→渡来人増加。部民(べみん)制・氏姓(うじかばね)制度=ウジ組織。雄略天皇VS諸王/五世紀中葉、対国内「治天下大王」と呼称→中国王朝と異なる別の天下
475 高句麗南下、百済陥落→鉄輸入減少。ヤマト王権混乱。
6世紀 継体天皇により統一、磐井の乱(対新羅軍)。以降、対外志向弱まり、内向化・内政強化.
589 隋中国統一(270年振り)、律令制:王土王民による統治。均田制で土地を百姓に配給また律令格式に基づく精緻な官僚機構が構築。律令制は日本、新羅渤海吐蕃も導入。
607 「日出處天子」と称すが、後再び倭を称する。
630 唐、突厥を破る
658  阿倍比羅夫蝦夷征伐。
660 新羅百済を滅ぼす
663 白村江の戦い:倭百済軍、唐新羅軍に敗北、国政整備がすすむ→律令制導入
668 新羅高句麗を滅ぼす:この間の戦力を支えたのは伽耶の鉄
670 国号を日本に更む(三国史録) 672壬申の乱
681 天武、律令編纂開始→701大宝律令完成。国号を正式に「日本」とする。(『旧・新唐書』には「日本が倭国を併合」とある)また天皇(てんわう:明治に「てんのう」)と称す:唐の高宗(在位649-683)が道教由来の天皇(神格化された天の北極=宇宙の中心)を称し、死後は天皇大帝の諡(おくりな)を付与。時期については各説。
720『日本書紀

◆未来記=予言書:予言詩「野馬台詩」伝宝誌作→平安後期に百王思想(天皇は百代で終わる:百王の流れ畢ごとく竭き、猿犬英雄を称す):南北朝時代には百代に達す。慈円や義満も参照。

武家天皇院政:古代はともかく執政王として君臨した天皇は天武・持統・後醍醐の三天皇という説もある。平安中期の王朝時代までは名目上の主権者は天皇だった。1086白河上皇による院政開始により、王権の所在が複雑化:上皇(本院)の出す院宣(いんぜん)が、天皇の出す綸旨(りんじ)よりも最上の文書となり、白河をつぐ鳥羽上皇は名実ともに専制君主となる。
1221 承久の乱後鳥羽上皇、幕府に対して挙兵。上皇は配流、後鳥羽の兄・守貞親王を新天皇とする(武家による天皇廃位)。以降、幕府に無断で行われる皇位継承は無効とされる→1629
1246 天皇家皇位継承を巡り、大覚寺統持明院統に分裂(→幕府仲介で交互即位へ)
1274/81 元寇太宰府からの蒙古牒状を朝廷の院権力は幕府に委ねる:天皇による外交権の自発的な放棄。
1321 大覚寺統後醍醐天皇、親政を開始。
1331 後醍醐天皇、挙兵。幕府、後醍醐を廃位し、隠岐に流す。
1333 名和一族によって島より脱出、伯耆船上山(鳥取)で倒幕の綸旨発布=挙兵。幕府から派遣された尊氏、後醍醐側に寝返り、鎌倉幕府滅亡。建武の親政:中国的な天皇専制を目指す。
1335 恩賞を巡り、尊氏離反。尊氏、持明院統光厳上皇を擁立(北朝)、後醍醐、吉野へ。→南北朝の動乱は王権の形態(親政か院政か)を巡る争いでもあった。
1351 紅巾の乱(白蓮教)
1352 南朝軍、光厳上皇らを拉致。幕府、受禅儀式を行うために弥仁(いやひと)の祖母を「治天の君」と見たてる→天皇を欠いたままでは、権力の正統性が立たないゆえ。
1368 朱元璋、大明を興す。文字の獄:光・禿・僧などの文字を使うとあてこすりとして処刑。以降、空印事件、郭桓事件などで文人粛清。しかし科挙試験の難易度は下がり、定型文を暗記するだけでよくなり、官吏は職業意識低下、事なかれ主義に走る。文人・功臣粛清は朱の死まで続いた(〜1398)。
1380 クリコーヴォの戦いでロシア、二百年のモンゴル支配より自律。
1385 ポルトガル王国カスティーリャ(スペイン)から独立
1388 高麗の武将李成桂クーデター。
1387 朱元璋、北元をほぼ壊滅する。
1393 高麗、朝鮮国号にする。
1395 足利義満、出家し、法皇に擬し、綸旨を上回る御教書(みきょうじょ)を発給:武家による皇位の簒奪。義満は百王思想を意識、また朱元璋を憧憬していた。皇位簒奪は死によって挫折(暗殺か)
1415 ポ、モロッコのセウタ攻略。エンリケ航海王子
1419 応永の外寇李氏朝鮮対馬侵攻。
1428 1月籤で義教将軍跡目。9月正長の土一揆(日本開闢以来とされる)
1438 後南朝・大和土豪関東公方ら連合し、永享の乱:義教、朝敵征伐の「治罰」の綸旨を得る:天皇権威の復活。「治罰」綸旨の復活は極秘にされたが(幕府の権威にとっては問題)、義教が赤松満祐に暗殺され(1441)、赤松討伐に「治罰」綸旨が適用。以後、天皇の名による平定戦争(秩序回復)が定着。
1455・56の大勅書でポルトガル、アフリカからインドに至る地域の国王領有と貿易独占が承認。
1457 コシャマインの戦い。和人館陥落、蠣崎氏のみ残る。百年後、アイヌと協定。
1465明、白蓮教の乱/1467日本、応仁文明の乱。
1479スペイン王国イスパニア)成立。アルカソヴァス条約でカナリア諸島領有。航行権も獲得。
1481大勅書でポルトガルの独占を再確認。
1488 喜望峰/1490 ポ、アンゴラ植民地化
1492, グラナダ陥落によりレコンキスタ完成。8月コロンブス航海。
1493教皇アレクサンデル6世大勅書で教皇子午線を設定:西大西洋はスペイン、東大西洋とインド洋はポルトガル
1494 トルデシリャス条約:スペイン・ポルトガル間で子午線を境に西欧以外の世界を二分割し領土化。未発見地も「将来の領土」として領有の対象。
1497 ヴァスコ=ダ=ガマ、インドとの直接交易を目指す。カリカットに翌年到達、インド航路構築なる。コヴィリャンら修道士二名。「霊魂と胡椒を求めて」
1500 ポ、ブラジル植民地化(‐1822)。フランシスコ会8名カリカットに。
1502 ポルトガル、カルタス(通行証)制度の導入。
1503 ドミニコ会もインド布教開始。
1504 エラスムスキリスト教兵士提要』:信徒とは基督教の兵士、武器は祈りと聖書。ローマ教会批判
1508 カンブレー同盟戦争:ヴェネツィア、仏/西/神聖ローマ帝国教皇アグナデロの戦いで全領土と自由を喪失(マキャベッリ)。
1509 ポルトガル、ディウの海戦でインド洋制覇(対グジャラート・エジプト・カリカット連合艦隊)。
1510 アフォンソ・デ・アルブケルケ、ゴア占領。カトリック布教国策化の端緒。
1511 ポルトガル、マラッカ占領。倭寇
1516 スペイン・ハプスブルク朝開始。トマス・モア「ユートピア」:ユートピア住人は人口過剰になると植民を推進。空き地を生産的に活用するという名目で植民地化を正当化。
1517 ルター提題。ポルトガル、明入国。
1518 フランシスコ会、ゴア、コチンに修道院建設。
1519 スペイン、メキシコ征服。カール五世=カルロス一世、神聖ローマ皇帝
1520 ルター『ローマ教皇論』:真の教会とは内面的な不可視のもの。→万人司祭説。『キリスト者の自由について』。カール五世はルターらプロテスタント運動対策を講じるが、挫折。
1521 スペインのコルテス、アステカ王国征服。スペインでコムネロスの反乱(カール五世の絶対王政への抵抗)
1522 フッテン蜂起
1523 スイスのチューリヒ、ローマ教会と決別(ツヴィングリが指導)。『応仁記』:山名宗全細川勝元を猿犬。
1524エラスムス『自由意志論』。ミュンツァー農民戦争:翌年鎮圧
1525 ルター『奴隷意志論』:自由意志によって人は罪を犯すだけ、神が全てで人は無、恩恵と自由意志は矛盾する。ルター、農民戦争の暴徒化に関して、民衆の自発性に絶望し、「内面の教会」より制度的教会の優位を認める。また国家を神の作品とし、君主を神の代理人とし、その絶対的権力を正当化。→絶対主義の理論的基礎か?
・スイスで再洗礼派結成、ツヴィングリより敵視、カトリックと改革派の両方より弾圧。
1529 オスマン帝国、仏フランソワ一世と同盟し、ウィーン包囲。
1530 ポルトガル、ディウ港占領、関税徴収(それまでインド洋は公海。15Cのグジャラート商人の自治グジャラート王国は不介入、関税徴収の痕跡なし。ピアソン「ポルトガルとインド」岩波1984
1533 スペイン、インカを征服。マゼラン、モルッカ諸島航路探検、フィリピンで殺害される。教皇、ヘンリ8世を破門→議会、国王を国教会の首長に。
1534 イギリス宗教改革。ヘンリー八世国王至上法(Act of Supremacy)→教会の土地財産没収→財源を潤し王権強化・都市開発の契機。旧教徒トマス・モア反対、翌年処刑。
カルヴァンバーゼルに亡命。元騎士のロヨラ、ザビエルら7名でイエズス会創設:「教皇の望むところへどこでもゆく」「私の意図は異教の地をことごとく征服すること」、軍隊的性格を持っていた(イエス軍):世界布教の根拠はマルコ16-15「汝ら全世界を巡り全被造物に福音を伝えよ」。終末論思想=世界は悪魔だらけで人類を神の民へと。教化思想(教育)、科学的知識の活用。厳格な組織。
・ポ王を布教保護者としてゴア司教区が設置。カトリック布教の国策化→「神の国建設」「霊魂救済」の名目で武力侵攻を正当化。
1536 ウェールズ合同法でウエールズは国家としては消失。カルヴァンキリスト教綱要』:神の絶対的選択(予定説)。為政者は神の代理人。人民は絶対服従の義務を負う。神政政治
1538 カール五世、プレヴェザの海戦でオスマンに敗退、地中海の制海権を喪失。
1540 イングランドスコットランド王朝合同。「Empire of Great Britain」概念の誕生。1540年代の「ブリテン問題」→イングランド、スコトッランド、ウエールズアイルランドをいかに統合するか→イングランドスコットランド戦争と平行して論争:帝国の正統性を巡って古典引用と修辞法の争い。人文主義者や詩人が行為主。
イエズス会公認(新興修道会:910クリュニー会,1209フランシスコ会,1216ドミニコ会)のち1580年には会員5000人→インド布教の「停滞」(ヒンドゥ、イスラムの抵抗)打破のための新戦力として。
1541 ザビエル、インドのゴアへ。ヘンリー八世、アイルランド王を自称。
1542 ヘンリ八世「スコットランド人との争いについての布告」:ブルータス来島以降、野蛮人(巨人族)に秩序と文明をもたらした。イングランドは封建秩序を古来より途絶えることなく続いてきた。三王国は唯一の優越者に従うべき。スコットランドイングランド帝国の一部である。
1543 種子島ポルトガル人が鉄砲を伝える。
1545 カール五世らトリエント公会議カトリックの対抗改革の頂点)。ポトシ銀山開発開始。
1546 ドイツでシュマルカルデン宗教戦争(〜55)
1547 エドワード政権でプロテスタント的で商業的で海事的で自由で独立的なブリテン帝国が構想される。「ただひとつの君主国がBritaynと呼ばれる」。ブリテン人皇帝コンスタンティヌス赤十字の象徴へ
1548 ゴアのランチロット、薩摩のアンジロウからの伝聞で、天皇=Vo(王ワゥ)、papaのようなもの、将軍はGoxo(御所)=emperador(皇帝)、Goxoは支配権を持っているがVoに服属と書く(教皇と皇帝の関係に比較)
1548 カール五世、内戦の停止のためプロテスタントとの共存を提案(→1555 アウグスブルクの和議)
1549 ザビエル来日。11/5ザビエル、マカオ総督宛書簡「私を商務代理として信頼してほしい。利益は保証する」。
・トマス・スミス「このイングランド王国に関する国家論」:「世界のあらゆる国民のうち政治的で文明的な国民こそが残りの国民を支配する」
・ウィリアム・ラム「スコットランド商人とイングランド商人の訴え」でヘンリ八世の布告をスコットランド側から批判。ポリドールやヴェリギルウスを引用し、ブルータスの実在を批判。スコトッランドの批判的人文主義
1550 ラス・カサスの訴えによりカール五世、米先住民への不当な行為の撤廃を目指す/ウェッダバーン「スコットランドの苦情」帝国批判:ラテン語coloniaを英語で初めて使用。
1552 イングランドカルヴァン主義波及。
1554 ロヨライエズス会憲改定:教皇と会長への「死人のごとき従順」を強いる。大友宗麟、ザビエルらに布教許可。のち豊後信者1万。領国の富国強兵化(武器・貿易利権)
1556 フェリペ二世即位(スペイン帝国)、ネーデルラントに重税、カルヴァン派弾圧。
1558 エリザベス一世即位(-1603)。父を踏襲し国王至上法再発令。旧教勢力の暗殺計画に幾度も晒される。「私は国民と結婚した」処女王。中道路線→ロバート・ブラウンら会衆派は教会の国家からの自立、自給自足を訴え、弾圧→蘭・米へ避難。◆エリザベス一世時代の法律家「王は自らの内に自然的身体と政治的身体を持つ。自然的身体は可死的で老いに晒されている。しかし政治的身体は目で見たり、手で触れることができず、自然的身体の持つ脆弱さ・欠陥を持たない」→カントロヴィチこの「王の二つの身体」という虚構が近代民主制を準備:王の自然的身体に重ね合わされた政治的身体が「議会」へと読替えられ、後者を根拠とした前者の抹消が可能になった。清教徒「Kingを擁護するためにkingと戦う」→大文字時のKingが議会だった。
1559  ポルトガルイエズス会、エヴォラ大学創設(対抗改革の拠点)。5月ジョン・ノックスが偶像破壊運動。
1560 スコットランド議会はカルヴァン主義「スコットランド信仰告白」公式に採択(スコットランド宗教改革
1561 平戸でポルトガル人殺傷事件。
1562 ユグノー戦争=フランス宗教戦争(〜1598):宗教戦の名目での内戦。大村純忠横瀬イエズス会に提供。
1563 大村純忠、洗礼。寺社を破壊し、また領民に信仰を強制。
1565 スペイン、フィリピン征服。トマス・スミス「イングランド人の国家」:英国に必要なのは植民地、言語・法・宗教が国家の真の紐帯、この三つによってローマ人は世界を征服した。
1567 ポルトガル、長崎に来航
1568オランダ独立戦争(八十年戦争→1648独立承認);重税への反発と、利潤追求を求めるカルヴァン派。信長、正親町天皇の保護を大義名分に京都を制圧。信長は伴天連綸旨を平然とくつがえすなど天皇に敬意を払わないが、戦局のたびに天皇をかつぐ。
1569 トマス・ディグス、漂流物は臣民の財産にはなりえないゆえ、渚は国王の領有権下にある。
1570 大村純忠イエズス会に寒村だった長崎を提供。日本で信者3万。
1571 レパントの海戦でスペイン、オスマンを破る。
1572 聖バルテルミーの虐殺。勅書でポルトガル領の教会収入三分のニをポルトガルの征服地と日本・ブラジルの布教活動への充当を承認。
1573 イエズス会ヴァリニャーノ、東インド管区巡察師に。
1574 ヴァリニャーノ3月リスボン出帆9月ゴア到着。
1575 勅書でマカオ司教区創設。
1577 ジョン・ディー『完全な航海術に含まれる一般的で貴重な記憶』布告を根拠に:この並ぶものなきブリテン帝国。ブリテンの真の生まれながらの臣民たち:北欧、北海全域を領土に。海上主権論。ヴァリニャーノ9/16書簡:サルセットでイスラムから攻撃、200名の兵士で守る。10月マラッカに。
1578 ヴァリニャーノ9月マカオ到着。同地イエズス会員が中国定住を果たせなかったことを知り、中国語習得の必要を思う。島津軍との戦争中に大友宗麟、洗礼。長崎を龍造寺隆信軍が襲撃、純忠はポルトガル支援によって撃退。
1579 ヴァリニャーノ7月日本へ向けて出帆。マカオ後任ルッジェーリ中国語学習。日本信者10万。10月ロペス書簡:「全パードレは王立要塞を日本に設置し、征服以外に道はないとした」
1580 スペインのフェリペ二世、ポルトガルを併合(〜1640)。大村純忠、長崎統治権イエズス会に委託。ヴァリニャーノ『東インド巡察記』長崎で完成:日本人は東洋において最良のキリシタンとしては最適。また『日本布教長のための規則』で大砲・武器・弾薬の配置、城壁内でポルトガル人を囲い入れ、長崎人兵士に武器供与を支持→マニラに武器調達・日本派船を要請。長崎の軍事要塞化(自衛/スコラ戦争理論)。大村領内キリシタンは一時6万。
1581 ヴァリニャーノ、イエズス会員のための方針書『日本の風習と流儀に関する注意と助言』:日本文化に自分たちを適応させるという異例の「適応主義政策」を採用。日本の僧侶の風習をまねび、従者を連れる。内一人が後の信長家臣のアフリカ人ヤスケ。在日ポルトガル準管区長カブラルのアジア蔑視と対立、翌年カブラルを退去。
ネーデルラント連邦共和国(−1795)
・2月正親町天皇と不和にあった信長は譲位を促すために内裏前で御馬揃(観兵式)を挙行し圧力を加えるが、天皇屈さず:承久以来喪失してきた天皇の権威を再獲得。
1582 ヴァリニャーノフィリピン総督宛書簡で「征服事業は霊的な面だけでなく陛下の王国の発展にも寄与する。最大の征服事業は支那の征服である」、また天正遣欧少年使節を提案、実現、ゴアへ。ルッジェーリとマテオ・リッチ中国で宣教事業。
1580年代、ロシア、シベリア進出、トポリスクに要塞。
1585 イエズス会以外の日本布教は破門罪と勅書。翌年、フランシスコ会の布教権を承認。秀吉、関白就任(藤原氏以外が関白になるのは未曾有)→武家関白制:武家を公家的秩序で統治しようと計画。秀吉による王政復古。
九州征伐
1587 秀吉、ルソン・インド・朝鮮・琉球に服属入貢を要求(九州征伐途次ポルトガル船の堺来航とインド副王来訪を要請。九州統一後、朝鮮と琉球に入貢要求。佐々木P121)7/24博多でコエリョらにバテレン追放令通達:日本を神国と規定。長崎を直轄領に(しかし貿易利権のため活動を黙認)。しかし信仰などを禁止しているわけではない。コエリョら有馬の高来で協議、フィリピンにスペイン兵派遣要請。
10月生月のラモン書簡でポルトガル国王による要塞獲得を要請。
ヴァリニャーノ『日本巡察記』:天皇日本国王、秀吉をSenor de la Tenca(天下様)。フロイス天皇は最高統治者で将軍は副王。
1588 英国、イスパニア無敵艦隊を破る。以降、英国資本主義が台頭。また、教皇子午線から海洋自由の原則へ。
秀吉、海賊禁止令(布教と貿易の分離)
1589 フロイス、堅固な要塞、2、300名のイベリア兵士を要請。→追放令以前では九州局地的だったが、以後は日本国家との対決を想定。
1590 秀吉、日本統一。蠣崎(のち松前)慶広、上洛。琉球に中国出兵を賦課。8月加津佐協議で戦争介入を禁止。
ヴァリニャーノ、再来日。
1591 インド(=ゴア=ポルトガル)とルソン(=マニラ=スペイン)に入貢要求:来春の対明戦争の陣営に遅参すればルソンに出兵し制裁すると通告。
1592 朝鮮出兵:「唐入り」:明を服属させ天皇を北京に置き、秀吉はインド征伐、という構想。英国、対圃アゾレス沖海戦。英、極東貿易について知る。
1593 秀吉、松前氏に「国政ノ朱印」→蝦夷支配権の認可、夷人への非法行為禁止。台湾(高山国)にも入貢要求するが、台湾に統一政府がないという理由で実現せず。フランシスコ会が正式に来日
1594リチャード・ビーコン「ソロンの愚行」:マキャヴェリアイルランド版:平和で永続的な国家(安定的)は外国人の権利を認めず(スパルタ的)、自然を要塞とする(ヴェネツィア)。名誉と栄光を目指す国家(膨張的)は外人を同化し、民衆を武装させ、同盟関係を築くべき(ローマ的)。
1596 英ウッドら中国に向けて出航するも、難破/オランダ艦隊ジャワに到着、イスラム勢力のポルトガルへの反感を利用し、バンタン・アチェ王国と結ばれる。
・詩人スペンサー未完詩編「妖精の女王」で征服をはじめて民族学的に正当化。ブリテンが国家の最高の状態であることを人文学的に証明。「ブリテン人が所有し強大な国を築いたこの土地は/古代には未開の荒野/住人なく耕されず何も企てられず評判にもならず」(2巻10-5)、王の純血はアーサーの帝国を復活させ、以後は永遠の統一(3-3-49)/スペンサー「アイルランドの現状に関する見解」でアイリッシュスコティッシュの祖先はスキタイ。
・サン・フェリペ号事件
1597 朝鮮出兵。ルソンに朱印船制度の承認を要求。入貢要求は消える。ジョン・ディー『ブリタニカの海上覇権』。秀吉による迫害を受けてイエズス会本部、軍事介入を禁止。
1598 家康、宣教師ヘスースと引見、フィリピン総督との取次を依頼。蝦夷領主松前に「北高麗の様体」について語る(韃靼=女真族。後、清朝を興す)。
1599 イングランドアイルランド侵攻。スコットランドのジェイムズ六世「奥地の役立つ臣民を短期間で改革できる植民地を建設し、野蛮人を殲滅するか移住させ、文明を移植する」
1600  ロンドン東インド会社設立(蘭仏、続く) 仏、カナダ植民/ハクルート「主要な航海」/クレメンス八世、中国日本へはゴア経由で、西インド・フィリピン経由は禁止→イエズス会布教権独占。
・家康、明との国交回復。朝鮮との和平実現目指す。
・オランダ船リーフデ号豊後に漂着。家康、航海長ウィリアム・アダムス(英人)を召す。ポルトガル人は処罰を訴えるが、家康無視、オランダとイギリスはメキシコ同様貿易相手として魅力的だった。
・翌年は、朱印船貿易開始。ベトナム、シャム、カンボジャとの親善関係図る。またフィリピン総督にスペイン領メキシコとの通交希望を伝える。朱印船貿易開始は、スペインポルトガルにとっては新たな競合相手の出現→渡航数減少を要求。また各地に日本人町形成。
・セール『農業の劇場』労働は神の命じる義務。いかに土地から最大利益を上げるか。
1602 オランダ、連合東インド会社設立。
1603江戸幕府アイルランドのアルスター族、イングランド軍に降伏。アルスター植民地/エリザベス一世没。同君連合(スコットランド王ジェイムズ6世がイギリス王ジェイムズ1世に=スチュアート朝。正式の統合は百年後):イングランドウェールズスコットランドアイルランド連合(統合)。ジェイムズ1世の支持は弱く、王建神授説を提唱。
1604 家康、松前氏に三ヵ上定書:松前氏支配確定。アイヌ往来自由、アイヌに非文(道理にもとること)を申しかけることを禁じる。松前藩アイヌに年貢を課さなかったがアイヌは既に和人との交易なしに生活できなくなっていた。藩は生活援助「介抱」の名目で交易。オムシャ(相互贈与)。しかしアイヌにとっては商場、知行主が制限される。ウイマム(交易)は次第にアイヌ従属の政治的儀式となる。
1605 フィリピン総督に基督教布教禁止を提示:「わが邦は神国と称し、偶像は祖先の代より今に至るまで大いに尊敬せり、予一人これに背き破壊することあたわざれば也」という根拠。またマニラ在住日本人帰国の禁止。長崎大村氏宣教師追放。毛利氏キリシタン老臣処刑。
・カタリナ号事件:蘭海軍ヘームスケルクがポルトガル船を拿捕→グロティウス「捕獲海論」で蘭の正当性。
1607 探検家ジョン・スミス:トロイアの英雄アイネーイスを想起しつつ北米ジェイムズタウンに入植。(1610 飢饉。人口500→60)またウォルター・ローリー、煙草をイングランドに広める。
1608 パウルス五世、托鉢修道会の布教の認可。ジョン・スミス農業奨励のため「働かざる者食うべからず」
1609,2月 島津氏、琉球制す(「附唐国」とする)。聘礼使派遣問題の解決のため。家康、琉球を仲介し明との国交回復を策略。3月、宗氏、朝鮮と己酉条約。5月 オランダ船、平戸で通商要求、商館(対西圃のための軍事拠点)建設。9月 スペイン船(マニラ→メキシコ)漂着。前フィリピン総督ビベロ。12 月 有馬晴信ポルトガル船撃沈(←前年マカオでの日本人殺害事件)、マカオ司令官ペッソア自害。
・蘭グロティウス『自由海論Mare liberum』⇄ジェイムズ、無許可の外国人(蘭人)のブリテン島周辺での漁業禁止=閉鎖海洋論
・イーコルキム法:諸島部政策:宗教再興、歓待奨励、怠惰・物乞い・深酒・火器携行を防止し、野蛮と無知と非文明を矯正する。
1610幕府、ビベロにアダムズ建造の黒船を与えメキシコへ遣使
1611 幕府、ポルトガル、明に貿易許可。メキシコからビスカイノ来日(金銀島を探検、家康疑念、支倉使節船で帰国)。
1612 キリシタンと喫煙禁令。デンマーク東インド会社創設、インド、カリブ、アフリカへ。「テンペスト」初演
1613 英、対日貿易開始、平戸商館建設。商館長コックス(-1623迄勤務):将軍をemperour天皇をDirey(内裏)pope of Japan(法王・教皇)と書く。
伊達政宗、ローマへ支倉遣欧使節。宣教師ソテロのスペイン国王宛て書簡で、将軍をEmperador、日本をInperio(帝国)と表現。政宗は奥州王Rey de Voxu。
・伴天連追放之文で金地院崇伝、日本を神国・仏国と規定(江戸国家の基礎としての非キリシタン国家)。
・ウェルウッド『すべての海洋法の要約』閉鎖海洋論:神は地上と海上を分割したので、諸侯は海上領有権を持つ。
1614 明、日本の要求拒否。しかし渡航船は激増。(仲介した琉球使節書簡の内容は不明)。スミス、メイン付近をニューイングランドと名付ける。サムエル・パーチェス「茶色のムーア人、黒人、薄黒いリビア人、灰色のインド人、オリーブ色のアメリカ原住民は、彼らより白い欧州人たちと、一つの偉大な牧者のもとに、一つの羊の群れとなる。…皮膚の色、言語、性、身分の差別なく、ひとつになり、永遠に祝福される」
1615 豊臣家滅亡。
武家諸法度:「文を左に、武を右に」→『神皇正統記』の「世乱れる時は武を右にし文を左にす、国治まる時は文を右にし武を左にす」に由来→家康、情況を乱世と認識。(藤井譲治,72)
・禁中並公家法度:一条「天子諸芸能之事、第一学問也」と天皇の政治介入を間接的に否定(史上初)。紫衣(しえ:朝廷の収入源)の授与禁止→紫衣事件。また天皇=国王→外交文書でも家康は国王を称さず「日本国源家康」、家光のとき「日本国大君」。
1616 鎖国政策開始。外国船長崎平戸に限定。ヌルハチ後金建国、南へ侵攻開始。
1617 オランダ、対西圃マニラ封鎖作戦。崇伝、朝鮮国王への返書作成に際し、朝鮮は戎と規定。この朝鮮認識は、律令体制で中国と対等したことに由来し、伝統的観念の再確認だった。
1618 三十年戦争神聖ローマ帝国におけるハプスブルグ家とブルボン家、ヴァーサ家の覇権争い。
1619 京都でキリシタン52人火刑。蘭英共同防御艦隊創設、平戸を母港とする。黒人奴隷、ジェイムズタウン上陸。
1619,オランダ、ジャワ総督府。1621,バンダ島虐殺,1623アンボイナの虐殺1624台湾占領
1620 分離派、ニューイングランド(今日のプリマス)へ移住。メイフラワー契約で「政治的市民団」として署名。
1621 中国セイ江都督書簡、「王」の字以外木刷→崇伝「無礼」「慮外なる者」と怒。
・ 三項目の命(武器輸出禁止など)→オランダ・イギリス、平戸の軍事機能を喪失。
・西人モレホン「日本支那見聞録」(中国人日本人パレスチナ人説。小熊:173)
1622 オランダ、ポルトガルの拠点マカオ攻撃。
1623 英国、平戸商館閉鎖。アンボイナ事件:オランダ人、アンボイナで英商館員10名、日本人9名斬首、インドネシアから英勢力排除(ベイリp22)。
1624 イスパニアとの通商拒絶。オランダ、台湾に城塞。
1625セラフィン・デ・フレイタス『アジアにおけるポルトガル人の正当な支配についてDe Justo Imperio Lusitanorum Asiatico』パーチャス『ハクルートの遺稿ーパーチャス、その巡礼者』;自然は欧州産業に屈服する。
グロティウス『戦争と平和の法』
1627 台湾総督ノイツ来日、将軍と対等に外交できるのは国王のみとして謁見拒否される。キリシタン340人処刑。ヌルハチ、朝鮮侵攻。紫衣事件(朝幕対立。後水尾天皇退位決意)
1628 ノイツ、朱印船捕縛で報復→オランダ船平戸で抑留、商館閉鎖命令。またスペインが日本船捕縛→長崎でポルトガル船抑留(ポは当時スペイン支配下
1629 11/8後水尾天皇、幕府に通達しないまま、7才の二女に皇位譲位(院政開始)。武家に知らされない退位強行は前代未聞。幕府、この「非法」な践祚(せんそ)を追認。

幕府、朝鮮へ援軍派遣を申し出るが、朝鮮側は拒否/ポルトガルモザンビーク植民地化/チャールズ一世(ジェイムズ1世の子)、専制強化、議会解散。以後11年議会停止。
1630 耶蘇教の本輸入禁止。このころ江戸封建国家確立。島原城主松倉、軍船フィリピン派遣。山田長政シャムで毒殺。
・英移民ジョン・ウィンスロップ船上演説(R.B:45)で移住を神との契約とする:新たなエルサレムの前身としてのアメリカ=アメリカのイスラエル:アウグスティンのカリタス(神の愛徳)とクピディタス(バビロン的貪欲・快楽・利益)のどちらを選ぶかと提起。英国的でないローマ的シンボリズムで思考。セイラムに上陸。以降1630 年代にはニューイングランドへ二万人移住.
1632 家光、武士困窮の原因を贅沢と考え、旗本衆へ「その身の分限に従うべし、私の奢り仕るまじき」とし、以降も生活の詳細を管理(微視的)/ロシア、ヤクーツク(シベリア開発基地)建設/説教「植民地へ向けて主の約したまえること」で新大陸をイスラエルになぞらえ移住を出エジプトにたとえたジョン・コットンもセイラム移住。コットンは予型論(現実を聖書の記述との対応で考える)で植民正当化。
1633 バラズ『ブリテン海域の主権』。ウルバヌス八世、全修道会の日本への布教を承認。
1634 琉球、慶賀使派遣→「通信国」として位置づけ。琉球使節は異国風を強要、日本化は厳しく制限。(中国冊封体制保持のため)
1635 キリシタン弾圧強化。海外在住日本人帰国禁止。武家諸法度改定。セルデン『閉鎖海洋論』
1636 後金、清国と改める。英国、対支貿易開始/9月ポルトガル人との混血児ら287人マニラへ追放。日光東照宮完成、日本的華夷秩序を視覚表象するページェント装置。寛永通宝→中国貨幣の排除、貨幣独立/
1637 島原の乱。オランダ船デ・ライプ号に攻撃要請、以降「御忠節」として記憶。夏、家光、完成した本丸の造作に「華麗は無用」として作り直させる。
アメリカ:律法や善行より信仰を優先するアン・ハッチソンをウィンスロップやコットンら異端として裁判、有罪判決。アン「貴方達は私の体に何の権力を加えることはできない」
1638 ハッチソン派、Body Politicを形成。インディアンよりアクィドネック島を買い、ポーツマスに移住。
1639 日本:ポルトガル船来航禁止。オランダ商館長カロンに意見を聞くが、オランダ・イギリスにも圧迫。理由は基督教を普及させないため。
1640 ポルトガル船員61 人を斬首、船を焼く。
1641 鎖国完成:鎖国体制は朝鮮、ビルマのタウングー朝(1635‐1752)清の遷界令(1661)なども。
・ アルスター反乱。カトリック地主ローリ・オモア指導。
・鄭芝龍、日本貿易に参入。鄭と暗闘するオランダは日本人に扮した伴天連が密かに渡航している、明の宣教師は活発という情報を幕府に伝える。実際、船員に信者が見つかる。またオランダはシャムの日本との交易希望を妨害。シャムから幾度も使節来日するが幕府は拒否。カンボジアでも同様、オランダは貿易独占に策を弄する。オランダ東インド会社日本商館、平戸から出島へ。オランダ、マラッカ占領、香料貿易独占。ポルトガル海上帝国の終わり(またイベリアではユダヤ人排斥→蘭へ亡命、ユダヤ人の東インド会社社員も多くいた)。英東インド会社も東・東南アジアより撤退し、インド経営に専念。
1642 清、明を破る。日本では「華夷変態」として、「日本的内部=帝国」が意識されていく。王朝持続の点で日本が優位/英、議会軍と国王軍の内戦=ピューリタン革命:ジェントリ出身のクロムウェル、新型軍編成。
1643 土民仕置十七条。倹約励行、田畑永代売買禁止。
1644 明、援兵要請、幕府拒絶。ロジャー・ウィリアムズ「信仰の大義を掲げて迫害を説く血まみれの教義」でコットンらの予型論を批判:イエス誕生で旧約は役目を終えた、儀式・制度に囚われない「内面の自由」→のち政教分離・信仰の自由の思想へ。
1645 江戸市中のかぶき者を取り締まる。宮号宣下で家康、「関八州鎮守」から「日本ノ神」となる。
12 月 明皇帝の一族の唐王を助る鄭芝龍、援兵要請。
1646 例幣使制度。(日光と伊勢) 9月唐王、再要請。紀伊徳川頼宣、出兵論。井伊直孝、中国朝鮮に領土を持っても無意味。
1648  ヴェストファーレン条約三十年戦争および欧州宗教戦争終了:ハプスブルク敗北、仏勝利:教皇・皇帝などの超国家的権力による欧州統合は断念。諸領邦国家による勢力均衡体制へ。
ドン・コサック、シベリアの毛皮を求め、シベリアの小規模民族を征服しながら、太平洋岸に到達。シベリア征服は武装集団コサック隊による。
1649 クロムウェルら議会派、王を処刑、王政廃止、Commonwealth成立。抵抗勢力(長老派、平等派)制圧。諸国家の勢力均衡体制。アイルランド征伐(ドロロイダとウェクスフォードの虐殺)。ぺティ土地測量→土地没収。
1651 航海条例(対オランダ)、翌年英蘭戦争ホッブズリヴァイアサン
1653 クロムウェル、ロード・プロテクター(護国卿)となり軍事独裁。厳格なピューリタニズムに基づき劇場閉鎖。
1655 英、スペインからジャマイカを収奪。世界最大の砂糖生産地となる(茶・コーヒー消費の拡大にともない砂糖生産激増)
1656 共和主義ハリントン『オセアナ』:プロテクター政権批判/マキャベリ的ジレンマ(帝国と自由の両立不しがたい)をキケロ的に和解(自由を確保しつつ帝国を拡大する。世界の支配imperiumよりも世界の保護を)。
1657 明暦の大火(10万死)。クロムウェル東インド会社を株式に。
1659 西川如見『華夷通商考』。仏、西に勝利。
1660 クロムウェル没後、王党派、チャールズ2世を呼び戻す=王政復古(〜1770年代産業革命まで):革命の失敗の反省により、ピューリタニズムの神秘主義セクト信仰を退け、経験論・政治算術が勃興する。
1661 鄭芝龍・成功父子台湾占領。チャールズ二世とポルトガル王女が結婚、持参金のひとつはボンベイ
ルイ14世、司法の建言権を制限し、絶対王政による親政を開始;ボシュエの王権神授説・ガリカニスム教皇からの独立):朕は国家なり。王のメチエ(国民への義務)
1664 イングランド軍、蘭領ニューアムステルダム占領。フランス東インド会社再建。
1669 シャクシャインの反乱(〜71)。
1670 年代 インディアンと紛争。インディアン英側と仏側に分裂。
1678 チャールズ二世の王位継承問題(嫡子がおらず、また弟ジェームズは旧教)→ジェームズ即位反対派ホイッグと即位賛成派トーリー(しかし一代限りというつもりだった)の争い。→1685ジェームズ即位。
1680 イヴァン三世、モンゴル・ハーン帝国への歳貢を停止(250年の‘タタールのくびき’から解放。モスクワ=第三ローマ、第二ローマ=コンスタンティノープル
1682仏はルイジアナニューオリンズ植民(1710)。R・ローレンス:貿易の利益は国家の大事。
ルイ14世ヴェルサイユ宮殿建設、万人にエティケットを細かく規定して開放。「王の庭園鑑賞法」:噴水の前で一休みし、周りの彫刻を眺め、王の散歩道、向こうの運河を見渡そう」手引き書で、王の偉大さを示す。夏には連日祭典でバレエを公衆は楽しんだ。
1684 服忌令
1685 ルイ14世プロテスタンティズム禁止令。ペティ「アメリカ植民問題」:アイルランドアメリカへの国策植民地移住を構想。クラウチアメリカにおけるイングランド帝国』→海外所有地を帝国の構成員と見ていない。
1687 生類憐みの令(以後肉食が控えられる)。ウィリアム・ペティ『アイルランド論』『問題』:アイルランド人の半分をイングランドに移住し、アイルランドを家畜放牧の地とすれば、当地に議会も不要。アイルランド住民を被雇用者とみなす:領土的帝国から閉鎖海洋論へ:「主権と帝国とはホッブズ氏がいうように大きな権力を意味する。帝国は、そこに生きる万民の生きた自由と財産に及ぶ権利と権力、そこで生産される万物に及ぶ権利を意味する。領海権は、領主がその土地で産出された穀物や家畜に有するのと同等の権利を、魚や海洋の他の生産物に有することである。」「海洋は自然状態にあり、万民の万民に対する戦いがあった。すべての国々がその権利を一国に委譲すれば、平和と利益は続く」→ブリテンホッブズ的主権として出現。ペティは支配権imperiumと領有権dominiumを和解させる手段をホッブズに見出す。
1688 名誉革命:議会(ホイッグとトーリー一致団結)、カトリックを重用し専制的に常備軍を新設しようとしたジェイムズ2世と衝突、ジェームズの娘メアリ二世と夫オランダ総督ウィレム率いるオランダ軍を迎え、ジェイムズ二世を仏へ追放(処刑しなかったのは殉教者として同情を集めることを危惧したため)。権利の宣言。絶対王政消滅。「ニューイングランド領地」構想つぶれる。地主や貿易商を背景とするホイッグ党(のちの自由民主党)の支配、重商主義。ジェイムズ二世は仏軍と組み、カトリックアイルランドに上陸し、反乱を起すが、鎮圧。
ウィレム(ウィリアム三世)の英国入りにより、蘭東インド会社は英東インド会社に覇権を譲る。大英帝国海上覇権確立。
1689 ロック「市民政府ニ論」:領土より人口が、土地より人手が重要。また「世界ははじめアメリカのような状態だった」(49)
権利の章典(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown):立憲君主制「王は君臨すれども統治せず」現在も有効。
1689-97 英仏植民地戦争。露、清との戦争に敗れ、ネルチンスク条約アムール川流域放棄。
1690 ホイッグ、意見書:アイルランド専制政治と絶対服従の発祥地ゆえ、ジャコバイト(反革命)的腐敗がイングランドに再導入される危険有。/独博物学者ケンプェル、日本民族バビロニア起源説
1691 ペティ『アイルランドの政治解剖学』;ホッブズは自然的身体と政治的身体の類比を行った…政治的身体の均整、構造組織、比率を知らずに政治はできない。政治的身体=人口
1692 グレンコーの虐殺。セイラムの魔女裁判:ジョン・コットンの孫コットン・マザーMather裁判を正当化。
1694 イングランド銀行創設.メアリ二世没。
1695 ケアリ『イングランド国家論』「イングランドとその植民地はひとつの身体。人々は手足」
1697 露コサック隊アトラソフ、兵60人と大砲四門でカムチャダール族を征服、カムチャッカ基地建設。カムチャダール族のなかで暮らしていた日本人デンベエと会う。大阪商船乗組員で、他の船員は殺害されたり行方不明。
1698 アネズリ:貿易のための植民地(西インド諸島、アフリカ:入植者は本国に保護されるから独立要求しない)と帝国のための植民地(常備軍の負担を抑える)を区別。征服した国を従属しておくには武力によるか植民地。武力法は危険で高経費、植民地は歴史的=ローマ的に是認されており危険が少なく、我が国がアイルランド確保のためにしたことである。
1700イスパニア継承戦争(英蘭独VS仏西)/『国仙野手柄日記』:近松の先行作品/大北方戦争(〜21)
1701 デンベエ、ピョートル一世に引見。皇帝、独自の日本調査開始(それまで情報は蘭経由)。
1702 漂流民伝兵衛、ペテルブルク日本語学校教官になる。ウィリアム三世没、メアリの妹アン女王即位。
1705 イングランド外国人法(スコットランドが前年、独自の王立権を要求)でスコットランドに制裁を示す。人口5倍経済力38倍のイングランドに屈服。スコットランドダリエン植民地に期待したがイングランド妨害。
1707 グレートブリテン王国成立(イングランドスコットランド)正式に統合:スコットランド議会、自主解散。
1708 オールドミクソン;アメリカにおけるブリテン帝国。
1711 千島列島にコサックのアンツィフェーロフとコズィレフスキー。先年、日本船カムチャッカ漂着、カムチャダール族に襲撃され、捕虜となっていた日本人四名を救出。以降、探検にサナが同行
1713 コサック隊、パラムシル島制圧。アイヌのシタナイより日本の情報入手。和人・アイヌ・カムチャダールの複合的交易がなされていた。
・白石「采覧異言」執筆:インペラトル=帝・一総王、ローマ教皇=教化王。
・ダービー、コークス製鉄法開発(木炭から石炭へ)
1714 アン女王没、スチュアート朝断絶。独ハノーファー王国からジョージ一世を迎える:ハノーヴァー朝(〜現在)。国政は内閣。ホイッグ党ウォルポール、事実上の首相。ホイッグ=自由主義、トーリー=保守主義。二大政党制。
1715 スコットランドで反乱/白石『西洋紀聞』:ゼルマニア→「大国、その君、インペラドール」/近松『父は唐土 母は日本 国性爺合戦』初演(和唐内=鄭成功三韓征伐神話に重ねられ神秘力によって韃靼人を帰順)3年7ヵ月興行。続編「国性爺後日合戦」「唐船噺今国性爺」は当たらず。
1718 ウィリアム・ウッド:貿易理論は崇高な科学。貿易規制は帝国の鍵。
1720 禁書緩和令(キリスト教以外)。
1721英国でウォルポールにより責任内閣制はじまる。このときより1730年代にかけてブリテン帝国イデオロギーが構想される。ブリテン帝国は歴史・系譜・イデオロギーを獲得する(元来、帝国構想はイデオロギーであってアイデンティティではなかったAm:246)。
・英商務省アメリカ植民地初の正式調査→本国と植民地との一体性はない、支配権は統合されているが、領有権はばらばら→王室による全統治体制を勧告。→却下されるだけでなく、逆に帝国の不安定性を後にジェファーソンらにつけ込まれる:第一発見は帝国でなく個人であって、議会は入植者に関する権利を持たない。
・汎大西洋的帝国構想は不発に終わるが、大西洋世界のブリテン人に単一の政体構成員意識をもたらした。
大北方戦争スウェーデン側に勝利したロシア、正式に帝国となる。
1724-29・33 露、ベーリング探検隊で極東北海洋調査。ラッコ発見→毛皮商人進出。毛皮は中国へ。(ラッコ絶滅寸前)。ロシア、アイヌ征服、臣民とし、毛皮税(ヤサーク)徴収。→松前藩は千島のアイヌを通してロシアと交易。
1729 アルスタ人ドブズアイルランドは帝国の宝石。ドブズウォルポールアメリカ開発計画(カリフォリニアとイースター島)を提出。
1731 スウェーデン東インド会社創設(清・広東。小規模だが、英仏戦争、米独立戦争で巨額の利益。1813閉鎖)
1732 オーグルソープ『植民地関係文書精選』マキャベリと政治経済学をつなげ植民地正当化
1735 太宰春台『弁道書』:神道批判、国儒論争へ、幕末まで続く。
1737 スコットランド人ハチソン『道徳哲学大系』で領有権はたんなる占有では獲得できないと批判。また、母国が権力をふりかざすなら植民地は独立せよといい、「巨大で手に負えない帝国」を批判→ヒュームに影響。
1738 ボリングブルック『愛国王の理念』:海洋開放を目指す海上帝国の構想:植民地を母国の農場とし、艦隊に海を統治させる愛国的な王は、帝国と自由の理念を両立させることができる。
1739 ・シパンベルグ日本隊、千島列島測量、島に露名。仙台の田代島や網地島民と船上で物々交換。安房(鴨川)上陸、井戸から水を汲み、大根数本を抜き去る。伊豆でも目撃。仙台藩、藩兵数百人派遣。安房でも数十隻の漁船が動き出し、露船、逃走。6月、幕府、異国人上陸の際は捕え、逃げれば追うなと通達。シパンベルグ隊は以降も日本に向かうがいずれも濃霧のため到達できず。
・ヒューム、「人性論」で因果関係における必然性はない(蓋然性のみある)/空間的隔たりは時間的隔たりに劣る=西インド商人はジャマイカを憂慮しないわけにはいかないが、遠い未来を思うひとはいない→同時代の帝国イデオロギーを批判するとともに、「帝国の遠隔作用」を構想。人道主義的な感情のグローバル化。帝国における距離と感情の関係を明らかにした。大西洋の空間を超える帝国的接近の概念を知っていた(Am:255)。また帝国は無秩序、暴力、無政府、専制ときて、自然に破滅する、とも(264)。
・10月ジェンキンスの耳の戦争(英対西):西に貿易税を払わなかった英船長拿捕され耳をきられる。英国民、主戦論(これ以前に反スペイン感情が形成←マドック王子伝説やラス・カサス報告など:Am256)→西インド諸島の解放戦争→翌年オーストリア継承戦争(〜1748)→七年戦争
プロイセンフリードリヒ二世『反マキャベリ論』:領地に対して超越的・外在的なマキャベリ的君主から内在的君主像へ:君主は国民に奉仕する第一の下僕:王の身体を国家社会のなかに内在させた。
1740 ジェイムズ・トムスン愛国歌「アルフレッド」:ブリタニアよ統治せよ、怒濤を統べよ、ブリテン人が奴隷に身を落とすことはない:この頃、ブリテンナショナリズム隆盛:国旗、国家、クリケット、チェス、バックギャモン成立。
1743 バルバドスの農園主アシュリ:ブリテンアイルランドアメリカ、東インド諸島、アフリカはひとつの帝国。
1743 匿名『市民政府論』→財産と自由をむすびつけるホイッグ帝国主義ブリテン帝国を財産の神聖さに基づいた、プロテスタント的で商業的、海事的、自由の帝国とみる。
1744 インド権益を巡って英仏戦争(カーナティック戦争〜1763)
1748 モンテスキュー『法の精神』:マキャベリ的強制力からの脱却。
1749 都賀庭鐘「英(はなぶさ)草紙」→明の「白話小説」から、読本の形態をつくる。
1754 久留米一揆17万
1756英仏七年戦争開戦。ブリテン指導者=ウィリアム・ピット=帝国の産婆役。 
1757プラッシーの戦い。英、インド支配確立。敗北した仏は財政危機になり革命の遠因となる。
1758 オランダ、ジャワ支配。清、ジュンガル殲滅、新疆平定。宝暦事件
1759 山県大弐「柳子新論」尊王排幕。
1760 ロシア、逃亡アイヌをパラムシル島に連れ戻す。
1762 ルソー「社会契約論」
1763 源内「風流志道軒伝」。英仏七年戦争フレンチ・インディアン戦争終結、仏、米とインドの植民地喪失(仏領カナダとインドを英に、ルイジアナをスペインに割譲。英、ハバナとマニラを西に返還、フロリダ獲得)。イギリスは以降グローバリゼーションのヘゲモニー国家として確立:産業革命、農業革命、人口増加:織機・紡績機の改良→工場制。
1764 英、砂糖条例と翌年印紙法で米を圧迫→独立戦争後、アメリカ独立(1776)
1765 関東で20万人の大一揆。76 年には各地で一揆。後藤梨香『紅毛談』アルファベット掲載で発禁。
1766 明和事件尊王思想弾圧。山県大弐ら処刑。コサック隊チョールヌイ、ラッコ漁に来ていたクナシリのアイヌらからも毛皮税強制徴収。
1767 イエズス会、全スペイン領土から追放。フランシスコ会が取って代わる。スペインのパトロナート・レアル体制:王権が教会を従属させる制度。
1768-71 ジェームズ・クック太平洋探検、北米西海岸で毛皮発見。-70オーストラリア東海岸領有宣言。英海軍省命には、他の列強に発見されていない土地があれば、先住民の同意を得たうえで、領有せよ、住民がいなければ最初の発見者として目印をつけ、領有せよ、とあった。例えば78年カヤック島での領有宣言は、船名や日付の記録と銀貨と銅貨を二枚づつ入れた壜を木の根もとに置いただけのものだった。
1769 賀茂真淵『国意考』(春台『辯道書』反駁)。仏東亜会社解散。
1770 ロシア、アイヌ二名を銃殺。翌年、エトロフ島とラショア島のアイヌ、ウルップ島・マカンル島で20数名ロシア人殺害。ロシアによるラッコ漁独占と強制臣民化への抵抗。またこのころコサック隊より商人が主体となる。
1771 ハンガリー人でポーランドの反露運動家だった捕虜ベニョフスキー、カムチャッカ長官を殺害し脱出。日本寄港の際、ロシアの蝦夷侵略計画および来年以降の日本侵攻を蘭商館長宛書簡に記す。幕府は情報を無視したが漏れていた(平沢旭山「ケイ浦偶筆」他)。
1772 米ジョゼフ・ワレン:自由な憲法への崇高な愛着こそがローマを頂点に至らしめた。アメリカにおけるローマ主義(ローマ市民的自由)=アメリカ的自由→英国君主制への拒絶
1773 教皇クレメンス14世、イエズス会を禁止(世俗化の行き過ぎ、また欧州国民国家の成立に伴い、国境を越えて自由に活動するイエズス会は邪魔。1814 復興許可される)
1774 「解体新書」→翻訳普及の端緒。本木良永「天地二球用法記」:コペルニクス地動説紹介。
・米ジョン・アダムズ:「ブリテン帝国」とはコモンローでなく、パンフレットの言葉。北米植民地の大半は1707の合同条約以前のもの→ブリテン帝国のイデオロギー的基礎をゆるがす。
ナサニエル・ナイルス『自由ニ論』:海賊や泥棒が生きるための処世訓だとしてロック批判。
1775 千島列島・松前航路開発およびアイヌ臣民化のためアンチーピン隊出帆、座礁
・蘭商館長フェイト、林子平に露南進と蝦夷の日本領有を教諭。だが工藤平助は蘭の露脅威論は蘭の利害に関係し、陰謀論を主張(後工藤は改め露脅威論を採用)。
アメリカ独立戦争:1740年代の大覚醒運動(回心conversion=革命と契約covenant=憲法:RB75)の影響。
1776 ペイン「コモンセンス」6月バージニア権利章典、7/4 独立宣言(トマス・ジェファソンら起草)。アメリカは神の初子の国/ジェファソン:全世代は世界をもう一度やり直す権利を持つ。また20年ごとに革命が勃発するのもよい。ジェファソンはベーコン・ニュートン・ロックを尊敬→ブレイクはこの三人の世界観を単一的観点single visionととらえ、眠りあるいは死と考えていた⇔二重的観点twofold vision
・スミス『国富論』:自由主義による重商主義批判。貿易による財貨獲得は逆に金貨幣が国外に流出し、戦費増大とともに英経済は疲弊→経営危機にあった東インド会社によるアジア貿易独占を批判→関税撤廃、国債発行停止、貿易から労働生産力増大を提案。→1833中国独占貿易終了により東インド会社は商事会社としては終わる。
・秋成「雨月物語」。クック第三回探検、サンドイッチ諸島(ハワイ)発見。
1778 無宿人を佐渡へ。イルクーツク商人シャバリン来日、松前藩通商拒否、初の直接交渉。北方海防問題。南千島アイヌ臣民化を積極的に展開、1500名の新臣民がイルクーツクに報告。
1779 シャバリン再来日、松前藩拒否、ウルップ島への渡航禁止も通告。翌年ウルップ島は地震津波に襲われ、以降ロシア商人はアリューシャン列島に勢力を移す。エカチュリーナ二世勅令でアイヌから毛皮税徴収禁止。(理由は現地管理者が私腹を肥やすこと、アイヌ保護のための軍隊維持の費用を避けるため。帝国は「臣民」の保護義務があった。仮想敵は日本。もし日本と紛争すれば通商もできない。)/クック探検隊(クック死後):富士山らしき円錐形の山を濃霧のなかに遠望。
1781 古学派の野村公台『読国意考』。→海量『『読国意考にこたえるふみ』
1782 凶作、地震。大黒屋光大夫「神昌丸」出帆、アリューシャン漂着、エカテリーナ二世に謁見。
83 浅間山噴火 
1783 工藤平助「赤蝦夷風説考」(ロシア脅威論):抜け荷の取締よりロシアとは正式に交易し蝦夷地を開発すべしと建言、翌年蝦夷政策開始。同書はチチングによって西欧へ紹介。東洋学の契機。パリ条約で米独立承認=英帝国の分断。
1784 アリュート人、露人襲撃、強制労働と強姦が理由。露人狩猟団、報復。アリュート人と露人との紛争は以後も続く。/八戸人口5万から2万に。仙台30万没。/江漢、銅版画。/パリ条約でアメリカ独立。クック航海記刊行、流行。
1785 弘前、人食い:橘南渓「東遊記」。林子平「三国通覧図説」刊行、処罰。
蝦夷地調査:東蝦夷探検隊ウルップ島に、西蝦夷探検隊は樺太調査。奉行松本秀持の蝦夷開発では諸国の非人七万の入植を提案。浅草弾左衛門も賛同し、開発従事によって百姓身分を要望。
・露、ソイモノフら皇帝に、アラスカの島々のクック領有宣言に対抗しベーリング航海を根拠に奪還すべきと陳述。皇帝、海軍派遣を指示。領有儀式の形式(ロシア国旗掲揚、壜)も決め、領有宣言を国家目標としたが、西欧情勢により中断。また中国からキャフタ交易を停止される。
・仏、ラペルーズ探検隊、マニラ、日本海も調査。ラペルーズ、千島列島南部はロシア支配及ばず、フランスの拠点は建設可能と王に報告。しかしフランスは後革命の混乱や毛皮暴落もあり、北太平洋の毛皮交易に参加しなかった。
・ワットにより蒸気機関、改良→川を離れ都市近郊に工場→工業都市
1786 最上徳内、三名のロシア人とエトロフ島で会う。イシユヨはウルップ島は露人とアイヌとの入会地であり、日本属領というのなら紛争当事者を処罰すべきだと詰め寄る。結局ウルップ島は日露共有地であることを確認。
・八月家治死亡で田沼罷免。蝦夷政策凍結。松平政権:蝦夷は現状維持、露との緩衝地帯、また蝦夷に農耕を教えると日本のためにならないとする。
林子平「海国兵談」執筆:江戸より阿蘭陀まで境なしの水路也
1787 大阪江戸打ち毀し(天明の大飢饉)。森島中良「紅毛雑話」。露人と神昌丸漂流民、船を合作。アムチトカ島出帆、ニジニ・カムチャッカ到着。
1788 「蘭学階梯」。長久保赤水「地球万国全図」。/浮浪人増大のため出稼奉公制限令。明誠堂喜三二「文武二道万石通」発禁。/神昌丸船員、イルクーツクへ。日本帰国を願うが、ロシアの役人になれと皇帝回答。
1789 仏革命。8月人権宣言
蘭癖大名福知山藩主)朽木昌綱『泰西輿地図説』:西欧に三つの「帝国」:イタリア(ローマ)、リュスラント(ロシア)、トルコ。「ケイセル」=「王」、「モナルク」=「覇王」、「コヲニンキ」=「王」。Keizerdom=「帝国」。「帝国」という用語は江戸中期に翻訳出版された隋の王通『文中子』にある。皇-帝-王-公の尊号序列、「強国は兵を、覇国は智を、王国は義を、帝国は徳を、皇国は無為をもって戦う」(平川p129)
・5月クナシリ・メナシの戦い。アイヌ蜂起、和人71人殺害。原因は〆粕生産労働と姦通。首長ツキノエの協力で鎮圧。37人のアイヌ処刑。幕府、アイヌ蜂起の背後にロシアを見る。以後、幕府は本格的に進出し、苛烈な支配をはじめる:アイヌ人口は二千いたが幕末には半減、明治13年には955人、明治24年には381人。
恋川春町「鸚鵡返文武二道」、唐来参和「天下一面鏡梅鉢」発禁。
・尊号事件(朝幕対立)
・ヌートカ湾事件:北米西海岸占有権を主張するスペイン、英米船拿捕。翌年、英、謝罪賠償要求、スペイン、仏露オーストリアの協力得られず屈伏。
1790 旧里帰農奨励令。石川人足寄場(社会復帰施設、心学などを教育)。寛政異学の禁(徂徠学を抑圧、朱子学を奨励。朱子学の正学化) 五月出版統制。
1791 アイヌ救済のため最上徳内「御救交易」/三月京伝処罰、蔦谷重三郎財産半分没収。
イルクーツク博物学者で商人のキリル・ラクスマン、神昌丸を連れペテルブルクへ。神昌丸船員、エカチェリーナ皇帝に謁見。
マカオで毛皮取引不調の米船、毛皮を売り込みに熊野に来航(堅徳力記=ケンドリック船長)。
・英アルゴノート号、対馬に。(オランダと同じプロテスタントであることを強調しろと指示を受けていた)二週間ほど日本船に声をかけたが退去せよという身振りのみで、断念、朝鮮へ。朝鮮も貿易制限で中国と日本だけに許可していたため拒否。 ※両米英船はヌートカ湾事件に関与、太平洋の東西が連接。
ベンサム『Panopticon』収容者に職業選択の自由を与える。
1792 9月ロシアのアダム・ラックスマン(キリルの二男)ら使節根室入港、アイヌ偵察に対し大砲を放つ。光大夫ら三人の漂流民引き渡し。ロシアは名分を持っているので定信悩む。
・12月、幕府、異国船への警備を諸地域に命じる:抵抗すれば船を壊し、捕らえよ。
1793 6月使節団、松前へ。ページェント行列。日露会談。ラクスマン、正坐を拒否。漂流民謝礼と長崎入港許可証の「信牌」を渡す。定信、江戸入港を恐れていた。このとき使節団は長崎に行かず帰国。
・ルイ16世、革命広場で処刑。モンターニュ派独裁。公安委員会。
1794 光大夫と桂川甫周著『北サ聞略』:「世界に四大州(アジア、西欧、アフリカ、アメリカ)あり、そのうち帝国は七つ、皇朝はそのひとつ」とある。ヒュブネル『ゼオガラヒ』(1769)などを引いて甫周は、ロシア・ゲルマニア・トルコが「皇帝統御国=帝国」、ポルトガル・スペイン・イギリス・フランスが「王侯所理国=王国」、シナ・ペルシア・インド・日本が「帝国」。→この「七帝国」情報が日本「帝国」の自己認識と天皇の優位の認識へ(平川p.124,130)
桂川甫周「地球全図」にクック航路記入さる(原図はラクスマン持ち込み→海洋帝国イギリスを認識する)。
ロベスピエール派処刑される。恐怖政治への報復として白色テロ
1795 ・オランダ共和国滅び、翌年バタビア共和国ができるとフランスの属国となり、イギリスと交戦状態に入る。
イルクーツク商人シェリホフ、ウルップ島に40人入植。
・若宮丸漂流、ロシア人に保護され、イルクーツクへ。しかし翌年皇帝没し、商人間で通商計画を巡り衝突
1796 英船エトモ来航、測量。幕府、蝦夷地見分役人を派遣、北方警備。エトロフ島に標柱「大日本恵登呂府」を立てる。白蓮教徒の乱(〜1804)
1798 本田利明(重商思想)「経世秘策」:焔硝・諸金・船舶・属島の開業が「海国日本」の四大急務。
「西域物語」執筆:人口増加のために航海・交易が必要:鎖国後日本は無知(儒学経世論の「藩意識」を無視、中国でなく西洋を手本):モスコビア(ロシア)千島列島属国化を指摘:アイヌの撫育、カムチャッカ植民の提案。
1799 蝦夷、幕府直轄地
オランダ東インド会社解散。オランダ植民地、仏と対抗する英国に接収。
シェリホフ案のロシア・アメリカ会社設立認可(国策会社)。
1800 伊能忠敬蝦夷測量/エトロフ島に商取引会所設置。アイルランドイングランドに併合。
1801 ウルップ島に標柱「天長地久大日本属島」、露人にアイヌとの交易禁止を通達。
・ケンペル『日本誌』部分訳の志筑忠雄『鎖国論』:「ケイヅル=帝号」として日本の天子・公方、シナの帝、トルコのミュルタン、ロシアのカサル、インドスタンのモコル、ゼルマニアのケイツル。『鎖国論』はのち篤胤らにも影響。
アイルランド併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国
・米第二次大覚醒運動:キャンプミーティング(野営天幕集会)
1802  アレクサンドル皇帝、世界周航探検許可。
1803 山村才助「訂正増訳采覧異言」(写本流布していた白石「采覧異言」の影響)→水戸学に影響:インペラトヲル・ケイザル=帝者。帝国は神聖ローマ帝国・ロシア・トルコ・シナ・ムガルの五つで、「西人、また呼びて帝国とす」る国にペルシア・エチオピア・モロッコ・シャム・日本・マタラム(ジャワ)の六つ。
・函館奉行アイヌのウルップ島渡海を禁止、ロシア人退去が目的(その後退去が確認)。
・4月若宮丸漂流民、アレクサンドル皇帝に謁見。7月レザーノフ使節団クロンシュタット出帆(14ヵ月かかる)。金銀島探検も一目的。
1804 10月レザーノフ長崎入港。重警備で使節団、武装解除される。幕府指示を遅延。
ハイチ革命。ナポレオン皇帝に。トレビシック、蒸気機関車発明
1805 3月幕府、ロシア側に通商拒否を通告。長崎では幕府批判。通商反対派の老中戸田氏教と天皇が通じ幕府と対立。天明期以降、朝廷再興の動きがあり、天皇の権威が徐々に浮上。
百姓の武芸習得禁止(庶民の脇差は許可されていた)
1806-7 露寇(ロシア、樺太侵攻)。ナポレオン、欧州支配、神聖ローマ帝国滅亡、大陸封鎖(対英)、オランダ、王国となる(ナポレオンの弟ルイ)。反ナポレオンでナショナリズム勃興:フィヒテ。橋本稲彦『辯読国意考』
1807 幕府、天文方の高橋景保に世界図作成を命じる。
大槻玄沢『環海異聞』:インペラトリ=帝爵=帝号の国にロシア・シナ・日本。玄沢、ゼルマニア・トルコ・インド追加。(ペルシアはすでに1798滅亡)→「六帝国」論。「日本は土壌狭小なりといえども、皇統一世、万古不易。帝爵の国号にして、他の諸邦に優れるもの、外域のもっとも尊重畏服する所以」。
・フルトン、蒸気船発明/イングランドスコットランド合同。
1808 英国、ポルトガルマカオを攻撃。英船フェートン号、長崎でオランダ商館引渡し要求。当時長崎は鍋島藩年番で入港予定もなく番兵もわずか、責任を問われ長崎奉行処刑、佐賀藩も処分→佐賀、軍事改革。
1810 高橋景保「新訂万国全図」:樺太が島であることを示す。レザーノフの船長クルーゼンシュタイン『世界周航記』で日本海軍の弱さを記す(七帝国論も含めそれまでの日本強国論は利益を独占したいオランダの戦略だった)。
1811 英、ジャワ占領。ゴロブニン、エトロフ測量。日本、国後で砲撃、捕囚。露のリコルド、高田屋捕囚、人質交渉。
・清、欧人の内地居住、布教を禁止。英国は対清貿易の赤字対策としてアヘンを売りさばく。清と英は貿易を巡って小競り合いを繰り返す。13年阿片禁止、15年阿片輸入禁止
司馬江漢『春波桜筆記』で「上、天子将軍より、下、土農工商非人乞食に至るまで皆もって人間なり」
1812 リコルド来航、白旗。日露交渉。ナポレオン、ロシア侵攻。
1813 イギリス総督ラッフルズ、オランダ船を日本へ派遣。インド独占貿易終了。
1814 幕府、エトロフ島を国境に。ナポレオン、同盟軍に敗北、ブルボン朝復活。ウィーン会議
1816 英軍艦、琉球に通商を請う。朝鮮にも来航。
1817 英船、浦賀沖に来る。工藤平助の長女只野真葛『独考』で儒教批判、古代女権、ロシアの恋愛結婚を憧憬。
1820 英国、ウインザー朝
1822 ヘーゲル歴史哲学講義で「イングランド人ならだれでも、自分たちこそ大洋を航海し、世界貿易を手中にし、東インドとその富を所有し、議会や裁判所を開いた、というだろう。民族に自尊心を与えるのはこうした行為なのです」
1823 佐藤信淵「宇内混同秘策」
1824 武装したイギリス人12人常陸上陸、薪水を要求。捕えられ、会沢正志斎と筆談。英人は捕鯨のためと弁明したが、会沢は英帝国の情報を知っていたので納得せず。翌年『新論』:甫周の七帝国説、山村の十一帝国説を引用、父子一体論(一気論的生命観)を基礎に、皇統一姓無窮論を提唱。日本は皇統一姓であるがゆえ優越。
1825 ジャワ戦争(オランダ対ジャワ)。異国船打払令
・スティーブンソン、蒸気機関車発明、以後鉄道産業興隆。また英国は機械輸出解禁し、産業化が世界化。
1826 頼山陽日本外史
1830、オランダ、ジャワに強制栽培制。 七月革命
1833中国独占貿易終了により東インド会社は商事会社としては終わる。
1834 英国の貧困問題で救貧法改正→自助の精神(スマイルズ)が奨励=「自己責任」の論理
1837 米船モリソン号浦賀入港、撃退される  大塩平八郎の乱ヴィクトリア女王即位。
1839 蛮社の獄鳥居耀蔵による謀略、フレームアップ。発端はモリソン号事件に関して長英が「戊戌夢物語」で異国船打払いを批判したこと、また崋山に知識を借りた江川英竜に鳥居が敗北したことが原因となっている。崋山は「慎機論」で幕府批判をしたかどで投獄されるが、「慎機論」は逮捕以前に公表されておらず、家宅捜索時に発見されたものである。崋山は投獄後、二年後に自殺。(また鳥居は遠山金四郎と反目、失脚→悪役のモデル)
1840年 阿片戦争(〜42)
1841 ウィーン会議。ジョン中浜万次郎漂流。
1842 年水野忠邦天保の改革人情本の出版を禁止、作者を罰す。直後、柳亭種彦の死。歌舞伎小屋を浅草猿若町へ強制移転、官許制にし、江戸三座制(中村座市村座森田座
1844、オランダ国王、日本に開国を進言。 1845英船、長崎来航。
1846 米国、デンマーク浦賀に来航。 英国、ラダック占拠。 1846-82 メキシコ戦争
1847 エマーソン、ユートピア個人主義をもって社会主義を批判:資本主義を擁護したわけではない:国家も最小に→19世紀半ばには社会主義はすでにアメリカ社会では拒絶されていた。社会主義はフランス的革命(救世)思想として到来したが、それはアメリカ的革命(救世)思想にとってライバルとなった(RB:224)。米にとって「革命的」であることはよいが、「無神論」「物質主義(唯物論)」ということは許されなかった。
1848 仏二月革命で王制廃止。第二共和制→労使対立激化、ナショナリズム自由主義運動→ウィーン体制崩壊。ベルリン・ウィーンで三月革命ハンガリーで翌年コッシュートの乱、イタリアではリソルジメント運動など民族運動勃発。「共産党宣言
1849 英航海条例撤廃→自由貿易主義確定
1850 太平天国の乱(〜64 死者4千万)。ジョセフ・ヒコ漂流。
1852 ペリー父島にピール島植民政府。
1853 黒船来航。14年後に幕府崩壊。水戸藩徳川斉昭「海防愚存」建白:和でなく戦を主とすべし、日本は外夷では帝国と恐怖致し居り、往古の三韓征伐、中古の蒙古撃退、近古の朝鮮征伐・耶蘇教禁絶によりその御武威が海外にふるわれたからであり、ペリーが我儘に測量は、開闢以来の国恥。(実際、米国の測量は当時すでに国際法違反)
1854 ,3/28クリミア戦争開始:トルコ利権。
3/31日米和親条約:交換比率1ドル=一分銀1枚→二年後、このレートでは日本の物価が三倍になることを後ハリスが下田の生活で知り、1ドル=一分銀3枚へ→当時日本では金銀交換比率1:5で欧米では1:15→欧米では銀貨15枚は金貨1枚、日本では金貨3枚→両替するだけで3倍→商人ら純度の低い銀貨メキシコドルを大量に持ち込み、一分銀に変え、さらに金貨に変える:莫大な金が流出50万両〜一千万両(幕府年間予算は200万両)
月英カムチャッカ攻略。防衛にあたったプチャーチン、翌年日本と日露和親条約
1856 3/30クリミア戦争でロシア、敗北。英仏の覇権強化。
10/8 英船籍を名乗る中国船アロー号を清の官憲が臨検。12名を拘束、3名を海賊容疑で逮捕。広東領事ハリー・パークスは臨検不当、また逮捕時に英国旗を降ろしたことは大英帝国への侮辱として抗議。清の葉名琛は国旗はなかったと主張するが、パークスは強固に主張(実際には船籍登録は期限切れ、また英国旗を掲げる権利はアロー号にはなく、逮捕は合法) 香港総督バウリングは海軍に広州の砲台を占領させる。広州で反英運動が起こり、居留地が焼き打ちされる。英国(パーマストン首相)は仏と共同出兵する。
1857年 アロー戦争(〜60 清と英仏)。12/29英仏連合軍、広州占領。
西欧で経済恐慌。インドで大反乱、東インド会社軍が鎮圧。
1858年2月北京に条約改正交渉、決裂、天津制圧。天津条約(英仏への賠償金、公使駐在、基督教承認など)
・仏安戦争(〜62 フランス・スペイン、ベトナム侵攻。コーチシナ割譲→1893 年インドシナ植民地完成)。
・7/29日米修好通商条約:ハリス、アロー戦争に出兵した英仏が日本侵略する可能性を指摘、それを防ぐには米とアヘン輸入禁止を含むこの条約を結ぶしかないと説得。また金銀交換比率では日本は金貨基準を主張するが、米は銀貨基準を押切る。
・英国、インドを東インド会社間接統治から直接統治(併合)。東インド会社解散、ムガル帝国滅亡。
・米第三次大覚醒運動。
1859 ,5月初代総領事オールコック来日、軍馬の売却を要請。6/17 障害物除去の最中に英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチン軍による砲撃を受け、上海へ撤退。1万7千の大軍で進軍。10月安政の大獄(井伊直助、尊王思想弾圧。橋本左内が獄死、吉田松陰は刑死)。
1860, 3/20日米修好通商条約批准のため77名渡米:小栗只順、独断で通貨交渉。交換不当を実証し(純金比率16:8)米承認。しかし条約改定に至らなかったのは交渉が幕府の指示ではなかったこと、新しい万延小判の鋳造などがあったためなど諸説)3/24桜田門外の変
・英仏連合軍、北京占領→10月露公使イグナチェフ調停で北京条約(天津開港、九竜半島割譲、清人の海外渡航許可=苦力貿易を承認させる)/崔済愚、東学を興す(西学=基督教に対抗)、64処刑。
1861, 3/5ロシア農奴解放令。3/14露軍艦ポサドニク号、対馬芋崎占拠:折衝を経て8/26ロシア領事と英国オールコックの仲介(勝海舟の提案)によって撤退。折衝にあたった外国奉行小栗上野介は老中と対立、辞任。4/12米、南北戦争(-65)。
1862 薩摩の五代友厚高杉晋作、清の上海を調査、「英ノ属国」。東禅寺事件・9/14生麦事件薩摩藩による英人殺害:賠償金10万ポンド)
1863, 1/9英国枢密院、対日海上封鎖など武力制裁勅令可決。4/9足利三代木像梟首事件。首謀者の一人師岡正胤は平田派の国学者で秋水の妻千代子の父。
5月下関戦争(長州対米仏)、7月薩英戦争(〜64 長州と英仏蘭米。市街を焼かなかったことを理由に300万ドル償金:ホープ中将は賠償に応じない場合は江戸・京都・大阪占領計画も検討。善戦した薩摩と英国結託)。竹尾正胤『大帝国論』。フランス、カンボジア保護国に。第一インターナショナル(-76)。
1864,8/5英仏蘭米、下関砲撃。レオン・ロッシュ来日。英国を信用できない小栗、仏に造船所建設について相談。海舟は海軍人材育成に500年かかると批判、小栗「土蔵附き売家の栄誉を残すべし」と幕府滅亡を見込んでの発言。横須賀ドック建設、仏に委任。仏の幕府支持へ(仏外相は後に薩長支援にまわりロッシュは罷免)。8/20長州征討。
1865,8月小栗「商社組織(日仏組合商法)の伺書」提出;外国商人の貿易独占や密貿易対策。
9/16ハリー・パークスら英米仏蘭軍艦、大阪湾に侵入、威圧的に兵庫開港を要求(背後に薩摩)。10/5開港勅許。10/13慶喜休戦(薩摩が動かないため←龍馬の密約薩長同盟
1867,1/30考明天皇暗殺か。5月兵庫開港。6/5小栗「兵庫商社」設立→薩英慌てる。8月ええじゃないか乱舞。10月大政奉還、12/9王制復古クーデタ(小御所会議)、幕府滅亡(神武創業之始に原き…:大国隆正に学んだ玉松操が進言):西郷江戸攻撃を計画していたがパークス反対(横須賀の仏を意識)。
矢野玄道『献芹語』(帝国のプログラム)。ナポレオン三世、軍事顧問団派遣。シャノワーヌ、ブリュネら来日。
1868,4/6東山道総督府、小栗斬首。戊辰戦争鳥羽伏見の戦い・東北戦争・函館戦争)。
1869 ブリュネ帰国、翌年普仏戦争に参加。のちパリコミューン鎮圧。米ラビのアイザック・ワイズ「歴史における我が国の位置:神に任命された自由の旗手、「われわれは元は英人、独人、仏人、西人…であるが、そのいずれでもない。この土地に生まれたすべての子どもはアメリカ人である」
1870 米国、朝鮮漢江で通商要求。
1871 朝鮮、米国と江華島で交戦。 岩倉具視ら欧米視察(要人が二年も海外に)。パリコミューン。マルクス「フランスの内乱」。西園寺公望
1872(明治5)9月、東京府、劇場に課税開始。また、歌舞伎関係者に、貴人・外国人の鑑賞にふさわしい道徳的筋書きにすること、狂言綺語をやめるよう通達。三座制も解消。
・ディズレーリ演説:帝国連合のヴィジョン:拡張より既得植