ロング・ハロウィーンや英雄の終わりの終わり

自分のこと(バットマンダークナイト=闇騎士)が書かれているから、「ロング・ハロウィーン」を高いが買い、読む。

バットマン : ロング・ハロウィーン ♯1

バットマン : ロング・ハロウィーン ♯1

バットマン : ロング・ハロウィーン ♯2

バットマン : ロング・ハロウィーン ♯2

ま、やっぱ「ダークナイト」の方が面白い。それはなによりも、我が愛しのマシンたちが登場するからであり、ついで、悪役のキャラクターをジョーカーに集約させ、しかもここがやはりすごいことであるが、映画の神様(映画の神様は事実上アメリカ人)が俳優ヒース・レジャー(オーストラリア人)に降臨したからである。


そうはいっても、「ロング・ハロウィーン」なしに「ダークナイト」もありえなかったし、アメコミはいくらかしか読んでいないが、これはやはり驚愕するものである。
 ノワールとかハードボイルドだとかサイコパス・ミステリーとかが好きなひとがどう思うが知らないが、バットマンの黒い影、黒そのもののフォルムには(なぜか→分析すべし)涎がでる。 

 夜中の一時間で速読(?)してしまったため、6400円が一時間で消費された計算になるのだが、これは「ウォッチメン」を映画見に行く前日に読み切ろうとして果たせず、半分しか読めなくて、つまり、映画「ウォッチメン」の前日に漫画「ウォッチメン」の半分を読み、映画を見て帰宅してから漫画の後半部分を読んだことが前景にある。「ウォッチメン」の文字数たるや!

 漫画「ウォッチメン」は読了するのに3時間くらいかかったし、漫画としては「ロング・ハロウィーン」よりすごい。映画としては、「ウォッチメン」より私は「ダークナイト」の方が好きである。
 でもま、「ウォッチメン」もまた漫画・映画ともに、ウルトラ傑作である。
 
 なんだろうか。結局、「英雄=ヒーロ−」の不可能性が前面に出されているからか。
 とくに「ウォッチメン」では、判断の困難さ、選択の優先順序をめぐって絶望と諦め、そして「そうしたくはないが」仲間を殺さざるをえないという、バートルビー的問題設定になっている。また、執筆当時に思想されていた核戦争というハルマゲドン・コンプレックス、終末論的・黙示録的問題設定もあるので、「終わりの終わり」、ということか。
 こうして振り返ると「ウォッチメン」って「神々の黄昏」みたいな…。
 19世紀あるいは「ヨーロッパ」へのピリオドがリヒャルト・ワーグナーであったとすれば、バットマン・シリーズとアラン・ムーアの「ウォッチメン」は20世紀つまりアメリカへのピリオド、とみなせるか…

 いずれ誰かが書くのだろうし、あるいはすでに誰か書いているのだろうか、日本の漫画とアメコミの様式対照分析をすると面白いかもしれない。
 アメコミはコマ割り(というのだろうか?)がストレート・スクウェアで、かつ、なぜか速度が表象されない。そのことは「ロング・ハロウィーン」に顕著である。日本の漫画では速度を表現する線(速度線?)が過剰なまでに描写されるのに対して、アメコミは静止画主義である。

 ちなみに、私が最も衝撃を受けたアメコミはポール・オースター原作の「シティ・オブ・グラス」である。

シティ・オブ・グラス (Graphic fiction)

シティ・オブ・グラス (Graphic fiction)

 バットマン「イヤーワン」は品切れ(一説では絶版)でどうにも高すぎる。なんで増刷しないのだろうか、売れないのだろうか。むーん。