6.配布資料(5/26)

増補改訂版。

1603 江戸開幕◉愛アルスター族、英軍に降伏。アルスター植民地/エリザベス一世没。同君連合:イングランドウェールズスコットランド、愛蘭土連合。ジェイムズIの支持は弱く、王建神授説を提唱/蘭東印会社、マライ半島パタニ商館創設。
1604 家康、松前氏に三ヵ上定書:松前蝦夷支配確定:韃靼との緩衝地帯。アイヌ往来自由、非法行為禁止。年貢は課されなかったがアイヌは既に和人との交易なしに生活できず。藩は生活援助「介抱」の名目で交易(オムシャ=相互贈与)。しかしアイヌにとっては商場・知行主が制限。ウイマム(交易)は次第にアイヌ従属の政治的儀式となる。
1605 比総督に基督教布教禁止を提示:「我邦は神国と称し、偶像は祖先の代より今に至るまで大いに尊敬せり、予一人これに背き破壊することあたわざれば也」。またマニラ在住日本人帰国の禁止。/カタリナ号事件:蘭海軍ヘームスケルクが葡船を拿捕→グロティウス「捕獲海論」で蘭の正当化。
1607 探検家J・スミス:英雄アイネーイスを想起しつつ北米ジェイムズタウンに入植。(1610 飢饉。人口500→60)/ローリー、煙草を英国に広める。
1608 パウルス五世、托鉢修道会の布教の認可。ジョン・スミス農業奨励のため「働かざる者食うべからず」
1609,2月◉島津氏、琉球制す:附唐(ふよう)国とする。聘礼使派遣問題の解決のため。家康、琉球を仲介し明と国交回復を策略。3月宗氏、朝鮮と己酉条約。5月 蘭船、平戸で通商要求、商館(対西圃のための軍事拠点)建設。9月西船(マニラ→メキシコ)漂着。前フィリピン総督ビベロ/12 月有馬晴信ポルトガル船撃沈(←前年マカオでの日本人殺害事件)、マカオ司令官ペッソア自害。/蘭グロティウス『自由海論Mare liberum』◉アムステルダム為替銀行:世界金融の中心に/ジェイムズ、無許可の外国人(蘭人)のブリテン島周辺での漁業禁止=閉鎖海洋論/イーコルキム法:諸島部政策:宗教再興、歓待奨励、怠惰・物乞い・深酒・火器携行を防止し、野蛮と無知と非文明を矯正する。
1610 幕府、ビベロにアダムズ建造の黒船を与えメキシコへ遣使/蘭、ジャカルタと条約。
1611 幕府、葡・明に貿易許可/メキシコからビスカイノ来日(金銀島を探検、家康疑念、支倉使節船で帰国)。
1612  キリシタンと喫煙禁令/デンマーク丁抹東インド会社創設/「テンペスト」初演/日蘭貿易開始。
1613 ◆英、対日貿易開始:平戸商館建設:館長コックス:将軍=emperour、天皇=Direy(内裏)pope of Japan(法王・教皇)/政宗、ローマへ支倉遣欧使節。宣教師ソテロの西国王宛書簡:将軍をEmperador,日本をInperio,政宗は奥州王Rey de Voxu/◆伴天連追放之文で金地院崇伝、日本は神国・仏国(江戸国家の基礎=非キリシタン国家)/ウェルウッド『すべての海洋法の要約』閉鎖海洋論:神は地上と海上を分割したので、諸侯は海上領有権を持つ。
1614 明、日本の貿易要求拒否。しかし渡航船は激増。(仲介した琉球使節書簡の内容は不明)/スミス、メイン付近をニューイングランドと名付ける。サムエル・パーチェス「茶色のムーア人、黒人、薄黒いリビア人、灰色の印人、オリーブ色の米原住民は、彼らより白い欧州人たちと、一つの偉大な牧者のもとに、一つの羊の群れとなる。…皮膚の色、言語、性、身分の差別なく、ひとつになり、永遠に祝福される」
1615 豊臣家滅亡/武家諸法度:「文を左に、武を右に」→『神皇正統記』の「世乱れる時は武を右にし文を左にす、国治まる時は文を右にし武を左にす」に由来→家康、情況を乱世と認識/◉禁中並公家法度:「天子諸芸能之事、第一学問也」と天皇の政治介入を間接的に否定(史上初)。紫衣(しえ:朝廷の収入源)の授与禁止→紫衣事件。また天皇=国王→外交文書でも家康は国王を称さず「日本国源家康」、家光のとき「日本国大君」◉風俗統制:髭、総髪を禁止。髷と月代(さかやき)に固定:守らない者は親指を切るなどの処罰。
1616 鎖国政策開始。外国船長崎平戸に限定/ヌルハチ金建国、南へ侵攻開始。
1617 蘭、西・葡に対してマニラ封鎖作戦/ボヘミアで旧教徒フェルディナンド二世、新教弾圧。翌年新教徒が王宮襲撃→30年戦争/朝鮮国王への返書で「日本国王」となく「日本国」と記してあることが朝鮮で問題化され、宗氏使節、処罰される→金地院崇伝「王の字は古より高麗への書に書かざる也。高麗は日本よりは戎国にあて申し候、日本の王と高麗の王と書のやりとりはこれなく候…今もって王の字あるまじきと申す理なり」=この朝鮮認識は、律令体制で日本が中国と対等し、朝鮮はその一等下としたことに由来、伝統的観念の再確認だった。→返書は宗氏独断で改竄。
1618 金、明攻撃を決定:七大恨の檄/◉三十年戦争神聖ローマ帝国=ハプスブルグ家(旧教)とボヘミア諸候(新教)・反ハプスブルク同盟(仏蘭英スウェーデン丁)の覇権争い。「最後の宗教戦争」で「最初の国際戦争」
1619 サルフの戦い:明朝鮮軍47万、金10万だったが金大勝、イェヘ部併合/キリシタン52人火刑/蘭英共同防御艦隊創設、平戸を母港とする/黒人奴隷、ジェイムズタウン上陸。
1619,◆蘭、パンテン王国へ侵攻:ジャカルタ占領:バタヴィアに名変更。
1620 ◉分離派、ニューイングランド(今日のプリマス)へ移住。メイフラワー契約で「政治的市民団」として署名。
1621 中国セイ江都督書簡、「王」の字以外木刷→崇伝「無礼」「慮外なる者」と怒。/◆三項目の命(武器輸出禁止など)→蘭英、平戸の軍事機能を喪失/西人モレホン「日本支那見聞録」(中国人日本人=パレスチナ人説。小熊:173)/蘭、バンダ島虐殺 、翌年葡の拠点マカオ攻撃◉金(清)で漢族に辮髪を強制。反対者は死刑。[江戸国家と清は同時期に男性身体の頭頂部に権力への服従のしるしを刻印。月代は清では剃られ、清が三つ編みで垂らす部分を日本では油で固めて頭に載せた。清では髭は許可。のち辮髪は幕府の貿易許可基準となり、「北狄(ほくてき)」。→「毛唐人」の誕生。
1623 英国、平戸商館閉鎖/アンボイナ事件:蘭、アンボイナで英商館員10名、日本人9名斬首→英、香料貿易及ジャワより撤退。
1624  日本、イスパニアとの通商拒絶/オランダ、台湾占領:日本の輸入品は中国の絹織物・生糸→蘭、中国貿易の必要。→在台商人末次平蔵との軋轢
1625 フレイタス『於アジア葡の正当な支配』/パーチャス『ハクルートの遺稿』:自然は欧州産業に屈服する/グロティウス『戦争と平和の法』
1626 仏リシュリー、セントキッツ島に開発会社:デスナンビュック、この島を拠点にサン・ドマング(のちハイチ)、グアドループを植民地化。
1627 蘭領台湾総督ノイツ来日、将軍と対等に外交できるのは国王のみとして謁見拒否。キリシタン340人処刑/ヌルハチ、朝鮮侵攻/紫衣事件→1629
1628 ◉ノイツ、朱印船捕縛で報復→蘭船平戸で抑留、商館閉鎖命令。また西が日本船捕縛→長崎で葡船抑留
1629◉11/8後水尾天皇、幕府に通達せず7才の二女に皇位譲位[院政]。武家に知らされない退位強行は前代未聞。幕府、この非法な践祚を追認/ 幕府、朝鮮へ援軍を申し出るが、朝鮮側は拒否/葡、モザンビーク植民地化/チャールズI(ジェイムズIの子)専制強化、議会解散。以後11年議会停止。
1630 耶蘇教の本輸入禁止。このころ江戸封建国家確立。島原城主松倉、軍船をフィリピン派遣。山田長政シャムで毒殺/◉英移民ジョン・ウィンスロップ船上演説(R.B:45)で移住は神との契約:新たなエルサレムの前身としての米:アウグスティンのカリタス(神の愛徳)とクピディタス(バビロン的貪欲・快楽・利益)のどちらを選ぶか。英国的でないローマ的シンボリズムで思考。セイラムに上陸。以降1630 年代にはニューイングランドへ二万人移住.
1632 家光、武士困窮の原因を贅沢とし、旗本衆へ「その身の分限に従うべし、私の奢り仕るまじき」生活の詳細を管理(微視的)/露、ヤクーツク(シベリア開発基地)建設/説教「植民地へ向けて主の約したまえること」で新大陸をイスラエルになぞらえ移住を出エジプトにたとえたジョン・コットンもセイラム移住。コットンは予型論(現実を聖書の記述との対応で考える)で植民正当化。
1633 バラズ『ブリテン海域の主権』。ウルバヌス八世、全修道会の日本への布教を承認。
1634 琉球、慶賀使派遣→「通信国」として位置づけ。琉球使節は異国風を強要、日本化は厳しく制限。(中国冊封体制保持のため)
1635 キリシタン弾圧強化。海外在住日本人帰国禁止/セルデン『閉鎖海洋論』/朝鮮、蘭船員抑留:鞭打ち、18年→ハメル「朝鮮幽囚期」→ラペルーズ『世界周航記』:日本と朝鮮は異邦人を歓待せず、交流しない野蛮非文明の民=タタールの民は歓待の社交性があるから簡単に武力制圧できる、とも。友愛や歓待の精神はここで<帝国>の二枚舌として臣民化のための手段となっている(平川175)/仏、マルティニーク上陸、城塞建設:カリブ人と戦闘。
1636 後金、清国と改める。英国、対支貿易開始/9月葡人との混血児ら287人マニラへ追放/日光東照宮完成、日本的華夷秩序を視覚表象するページェント装置/寛永通宝→中国貨幣の排除、貨幣独立
1637 島原の乱。蘭船デ・ライプ号に攻撃要請、「御忠節」→蘭に布教意思のないこと確認、貿易許可。夏、家光、完成した本丸に「華麗は無用」として作り直させる/◉❶蘭チューリップバブル先物取引→崩壊→政府一時的に取引中止→手形契約・債権債務の無化→解決◉米:律法より信仰を優先するアン・ハッチソンをウィンスロップやコットンら異端として裁判、有罪判決。アン「貴方達は私の体に何の権力を加えることはできない」→翌 ハッチソン派、Body Politicを形成し、インディアンよりアクィドネック島を買い、ポーツマスに移住。
1639 幕府、葡船来航禁止:蘭商館長カロンに意見を聞くが、蘭英にも圧迫。理由は基督教を普及させないため。翌 葡船員61 人斬首、船を焼く。
1641 鎖国完成:鎖国体制は朝鮮、ビルマのタウングー朝(1635‐1752)清の遷界令(1661)も/ アルスター反乱:カトリック地主オモア指導→英内戦の端緒/鄭芝龍、日本貿易参入→鄭と暗闘する蘭、日本人に扮した伴天連密航情報を幕府に伝え、実際、信者発見。また蘭はシャムの日本との交易希望を妨害。シャム使節来日するが幕府謁見拒否。カンボジアでも同様:蘭、貿易独占に策を弄する。蘭東インド会社日本商館、平戸から出島へ。◉蘭、マラッカ占領、香料貿易独占:葡海上帝国の終わり(またイベリアではユダヤ人排斥→蘭へ亡命、ユダヤ人の東インド会社社員も多くいた)。英東インド会社も東・東南アジアより撤退し、インド経営に専念。蘭東印会社の最大利益国は日本。金銀銅流出。
1642 ◉清、明を破る→日本では「華夷変態」(華が夷に変わる)として衝撃→「日本=帝国」が意識されていく。王朝持続の点で日本が優位。谷秦山:日本が中国。朝鮮、越南でも小中華主義が勃興。「日本型華夷観念」の誕生:以降、日本における観念論・超越論的思考傾向が定着◉英、議会軍と国王軍の内戦=ピューリタン戦争(革命)〜49:当初は国王軍優勢、クロムウェル新型軍編成で議会軍優勢に。
1644 李自成の乱(明への農民反乱):大順国を西安で建国、3月北京入城し、明滅ぶ。41日後、清の入城により崩壊[清の入関]/明、援兵要請、幕府拒絶/米ロジャー・ウィリアムズ「信仰の大義を掲げて迫害を説く血まみれの教義」でコットンらの予型論を批判:イエス誕生で旧約は役目を終えた、儀式・制度に囚われない「内面の自由」→のち政教分離・信仰の自由の思想へ。
1645 江戸市中のかぶき者を取り締まる。家康、「関八州鎮守」から「日本ノ神」へ。12 月 明皇帝の一族の唐王を助る鄭芝龍、援兵要請
1646 例幣使制度(日光と伊勢) 9月唐王、再要請。紀伊徳川頼宣、出兵論。井伊直孝、中国朝鮮に領土を持っても無意味。
1648  ◉ヴェストファーレン条約三十年戦争終了、初の多国間条約:ハプスブルク敗北、瑞典sweden・仏勝利:教皇・皇帝などの超国家的権力による欧州統合は断念。諸領邦国家による勢力均衡体制へ:諸国家は国際法上平等。仏西は戦争続行/ドン・コサックら武装集団コサック隊、毛皮を求めシベリア征服、太平洋岸に到達。
1649 ◉クロムウェルら議会派、王を処刑、王政廃止、Commonwealth成立。抵抗勢力(長老派、平等派levelers)制圧。愛蘭土征伐(ドロロイダとウェクスフォードの虐殺)。ぺティ土地測量→土地没収。Diggers(初期社会主義)、共有地開拓。第五王国派はテロへ、後弾圧で北米へ移住。
1651 ◉航海条例:中継貿易から蘭排除、翌年英蘭戦争/英国教会徒ホッブズ亡命先の仏で『リヴァイアサン』出版:王党派からは無神論的、共和派からは専制擁護として批判:自衛(自己保存)行為は自然権→各人の自然権が衝突(自然状態)・自然権の矛盾→自然法自然権を制限→自然権を一人の主権者(国家理性)へ委譲することを契約。「相互不信から自己を守るには…力や策によってすべての人間の身体を、自分を脅かす大きな力がなくなるまで支配すること」I-13,
1653 クロムウェル、ロード・プロテクター(護国卿)となり軍事独裁。厳格なピューリタニズムに基づき劇場閉鎖。
1655 英、西からジャマイカ収奪。世界最大の砂糖生産地となる(茶・コーヒー消費の拡大にともない砂糖生産激増)。
1656 共和主義ハリントン『オセアナ』:プロテクター政権批判/マキャベリ的ジレンマ(帝国と自由の両立不しがたい)をキケロ的に和解(自由を確保しつつ帝国を拡大する。世界の支配imperiumよりも世界の保護を)/清、台湾の鄭氏対策で海禁政策。   
1657 ◉クロムウェル東インド会社を株式に:/◉明暦の大火で本丸焼失、徳川光圀も藩邸が焼け、別邸で歴史編纂事業を開始(幕府公認の羅山「本朝編年録」も焼失。同年羅山死去)/陽明学の熊沢蕃山、官学=朱子学派と対立、岡山藩追放、以後流浪しつつ幕政批判。
1658  仏、マルティニーク島のカリブ人を殲滅:砂糖プランテーションとして莫大な富。
1659 ◉仏、西に勝利:西から仏へ覇権/朱舜水、日本に亡命。明末清初には多くの知識人が亡命。
1660 ◉クロムウェル没後、王党派、チャールズ2世を呼び戻す=王政復古(〜1770年代産業革命まで):革命の失敗の反省→ピューリタニズムの神秘主義セクト信仰を退け、経験論・政治算術が勃興。
1660年代◉寺檀制:全民が檀那寺檀家として登録。イエ。礼(冠婚葬祭など日常生活の儀礼体系):範は朱子の文公家礼(朝鮮でも)。また先祖との霊的交流:「先祖ノ神明即自己ノ神明ニテ候」若林強斎:心の問題は全て汚、祓で清めよ。“気”の連続:「人と人との間にも日本の人は同一気也」跡部良顕。
1661 ◉鄭芝龍・成功父子台湾占領、蘭駆逐。清、遷界令/チャールズ二世とポルトガル王女が結婚、持参金はボンベイルイ14世、司法の建言権を制限し、絶対王政による親政を開始;ボシュエの王権神授説・ガリカニスム教皇からの独立):朕は国家なり。王のメチエ(国民への義務)
1663 幕府、羅山「本朝編年録」完成を林鵞峰に命ず→公式史書『本朝通鑑』(宋『資治通鑑』を範)/光圀、彰考館創設(本格化):朱舜水を招聘→王朝の正統性は道(徳)にありまた叛臣は不当と教唆、また楠木正成を忠孝として賞賛。◉南朝正統論(光圀、頼山陽)(京都公家は北朝正統論)→吉田松蔭にも影響。また光圀、『本朝通鑑』草稿の「大和民族は呉の太白を祖とする」という記述に対し憤慨。光圀は以後元禄13(1701)に死去するまで年間予算の三分の一を費す。資料収集のため家臣を諸国に派遣→「水戸黄門」像。1709本紀列伝完成、1720幕府献上,1810朝廷献上、1848一般書籍化。1906完成。
1664 イングランド軍、北米蘭領ニューアムステルダム占領/フランス東インド会社再建。
1665 英蘭戦争II:ヤン・デ・ウィット=スピノザの友人「神学政治論(1670)」:宗教は感情に対して無力、感情はより大きい反対感情によって制止される(eti4-37-1)→教会と臣民は国家に従属すべき、国家の徳=安全、主権者は不正ではありえない、英民衆抵抗運動は悪弊、民主制=最も自然な政治形態、意見の自由の尊重:→宗教問題を国家によって決定すべきという意見といかに宥和させるのか→蘭で国家は教会よりも寛容だったのではないか(Russell)/浄瑠璃「宇佐八まんのゆらい」:新羅退治で神功皇后宣言:「毛唐人」=王化(おうげ)に屈しない異人=三韓の敵。
1669 シャクシャインの反乱(〜71)/蘭東印会社最盛期:戦艦40,商船150,兵士1万。     
1670 年代 米大陸でインディアンと紛争。インディアン英側と仏側に分裂。
1672 ◉英蘭戦争III:仏英蘭:ルイ14世、蘭侵攻。蘭、戦争と海上封鎖で経済破綻→デ・ウィット殺害
1678 ◉チャールズ二世の王位継承問題(嫡子がおらず、また弟ジェームズは旧教)→ジェームズ即位反対派ホイッグと即位賛成派トーリー(しかし一代限りというつもりだった)の争い→1685ジェームズ即位。
1682 仏ルイジアナ植民/ローレンス:貿易の利益は国家の大事/ルイ14世ヴェルサイユ宮殿建設、人民にエティケットを細かく規定し開放。「王の庭園鑑賞法」:噴水の前で一休みし、周りの彫刻を眺め、王の散歩道、向こうの運河を見渡そう」。夏には連日祭典でバレエ無料上演。[ポトラッチ的]        
1684 服忌令:喪中儀礼体系→死や血を忌む:戦国的感覚の否定とともに穢れ意識の形成(差別意識強化)
1685 ルイ14世プロテスタンティズム禁止令/ペティ「アメリカ植民問題」:アイルランドか米への国策植民地移住を構想/クラウチアメリカにおけるイングランド帝国』→海外所有地を帝国の構成員と見ていない。
1687 生類憐みの令:以後肉食が控えられる/蕃山『大学或問』で幕政批判(兵農分離や参勤交代批判)し下総古河に謹慎(軟禁)1691死/ペティ『アイルランド論』『問題』:アイルランド人の半分をイングランドに移住し、アイルランドを家畜放牧の地とすれば、当地に議会も不要。アイルランド住民を被雇用者とみなす:領土的帝国から閉鎖海洋論へ:「主権と帝国とはホッブズ氏がいうように大きな権力を意味する。帝国は、そこに生きる万民の生きた自由と財産に及ぶ権利と権力、そこで生産される万物に及ぶ権利を意味する。領海権は、領主がその土地で産出された穀物や家畜に有するのと同等の権利を、魚や海洋の他の生産物に有することである」「海洋は自然状態にあり、万民の万民に対する戦いがあった。すべての国々がその権利を一国に委譲すれば、平和と利益は続く」→ブリテンホッブズ的主権として出現。ペティは支配権imperiumと領有権dominiumを和解させる手段をホッブズに見出す。
1688 ◉名誉革命:議会(ホイッグとトーリー一致団結)、カトリックを重用し専制的に常備軍を新設しようとしたジェイムズ2世と衝突、ジェームズの娘メアリ二世と夫オランダ総督ウィレム率いる蘭軍を迎え、ジェイムズ二世を仏へ追放(処刑しなかったのは殉教者として同情を集めることを危惧したため)。権利の宣言。絶対王政消滅。「ニューイングランド領地」構想つぶれる。地主や貿易商を背景とするホイッグ党(のちの自由民主党)の支配、重商主義。ジェイムズ二世は仏軍と組み、カトリックアイルランドに上陸し、反乱を起すが、鎮圧/ウィレム(ウィリアム三世)英国入り→蘭東印会社は英東インド会社に覇権を譲る。英の海上覇権確立◉
1689 ロック「市民政府二論」:制限君主制:人間は創造主の作品(被造物)で至高の主の下僕、相互に破壊する従属関係は前提とされえない、自己の生存が脅かされない限りで他者を維持すべきであり侵害者への報復の場合を除いては他者の自由・身体・健康・財産を奪い傷つけてはならない:王の執行権と議会の立法権を分離:領土より人口が、土地より人手が重要。また「世界は始めアメリカのような状態だった」(49)/権利の章典(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown):立憲君主制「王は君臨すれども統治せず」現在も有効。
1689-97  英仏植民地戦争/露、清との戦争に敗れ、ネルチンスク条約アムール川流域放棄。
1690 ホイッグ、意見書:アイルランド専制政治と絶対服従の発祥地ゆえ、ジャコバイト(反革命)的腐敗がイングランドに再導入される危険有/独博物学者ケンプェル、日本民族バビロニア起源説
1691 ペティ『愛蘭土の政治解剖学』ホッブズの自然的身体と政治的身体…政治的身体(=人口)の均整、構造組織、比率を知らずに政治はできない。
1692 グレンコーの虐殺。セイラムの魔女裁判:ジョン・コットンの孫コットン・マザーMather裁判を正当化。
1694 英銀行創設.  1695 ケアリ『イングランド国家論』「英国とその植民地はひとつの身体。人々は手足」/西川如見『華夷通商考』
1697  ◆露コサック隊アトラソフ、兵60人と大砲四門でカムチャダール族を征服、カムチャッカ基地建設。カムチャダール族のなかで暮らしていた日本人デンベエと会う。大阪商船乗組員で、他の船員は殺害されたり行方不明。
1698  アネズリ:貿易のための植民地(西インド諸島、アフリカ:入植者は本国に保護されるから独立要求しない)と帝国のための植民地(常備軍の負担を抑える)を区別。征服した国を従属しておくには武力によるか植民地。武力は危険で高経費、植民地は歴史的=ローマ的に是認されており危険が少なく、我が国がアイルランド確保のためにしたことである。
1700 イスパニア継承戦争(英蘭独VS仏西)/『国仙野手柄日記』:近松の先行作品/大北方戦争(〜21)
1701  デンベエ、ピョートル一世に引見。皇帝、独自の日本調査開始(それまで情報は蘭経由)。
1702  漂流民伝兵衛、ペテルブルク日本語学校教官になる。ウィリアム三世没、メアリの妹アン女王即位。
1705  イングランド外国人法(スコットランドが前年、独自の王立権を要求)でスコットランドに制裁。人口5倍経済力38倍のイングランドに屈服。スコットランドダリエン植民地に期待したがイングランド妨害。
1707 グレートブリテン王国成立:イングランドスコットランド正式統合:スコットランド議会、自主解散。1708 オールドミクソン;米の英帝国。
1708 西川如見『増補華夷通商考』:禁書ジュリオ・アレニ『職方外紀』を種本。世界をアジア、欧州、リミア(アフリカ)、アメリカ、メカラニカ(豪)<五大州>に分類。如見「田舎に京あり、京に田舎あり、中華に夷狄あり、夷狄に中華あり」と相対主義的:『長崎夜話草』。
1711  千島列島にコサックのアンツィフェーロフとコズィレフスキー。先年、日本船カムチャッカ漂着、カムチャダール族に襲撃され、捕虜となっていた日本人四名を救出。以降、探検にサナが同行
1713  コサック隊、パラムシル島制圧。アイヌのシタナイより日本の情報入手。和人・アイヌ・カムチャダールの複合的交易がなされていた/白石「采覧異言」執筆:インペラトル=帝・一総王、ローマ教皇=教化王/ダービー、コークス製鉄法開発(木炭から石炭へ)/寺島良安『和漢三才図会』
1714 アン女王没、スチュアート朝断絶→独ハノーファー王国からジョージ一世を迎える:ハノーヴァー朝(〜現在):国政は内閣。ホイッグ党ウォルポール、事実上の首相。ホイッグ=自由主義、トーリー=保守主義。二大政党制。
1715  スコットランドで反乱/白石『西洋紀聞』:ゼルマニア→「大国、その君、インペラドール」「我国、東に僻(さか)りて最小しき也」/近松『父は唐土 母は日本 国性爺合戦』初演(和唐内=鄭成功三韓征伐神話に重ねられ神秘力によって韃靼人を帰順。小国なれども日本は女も義は捨てず)3年7ヵ月興行。続編「国性爺後日合戦」「唐船噺今国性爺」は当たらず。
1718  W・ウッド:貿易理論は崇高な科学。貿易規制は帝国の鍵。/仏ニューオリンズ植民(1710)
1719 西川如見『町人嚢』:天竺は仏国にて唯我独尊の国、此外の国は粟散(ぞくさん)国也と自慢す。唐土は聖人の国にて天地の中国也、万国第一仁義の国といふて自慢す。日本は神国也、世界の東にありて日輪始て照らし給ふ国にて地霊に人神也、万国第一の国にて金銀も多し。此三国各々自慢あり。自慢によって其国の作法政道立たり」自慢=自文化中心主義ethnocentrismによって相対化。人間に貴賤差別なしとも。政道とは悪行禁止、悪行の第一は乱逆(天草一揆等)。乱逆の始は一つの奢也。「日本水土考」:日本が上国・神国であるのは水土の妙に因る。台湾原住民は卑しく裸で狩ばかり。朝鮮は中華では絶えた儒の古道を残しており、人物は質素で長命。
1720  幕府、禁書緩和令(キリスト教以外)/◉❷夏、南海泡沫事件:南海会社(1711創立)の株価バブル→崩壊→株式会社禁止/❸ミシシッピ計画投機バブルも崩壊(ジョン・ロー:ミシシッピ会社、仏東印会社、中国会社併合→インド会社へ。また王立銀行も所有→株式へ投機熱(500L→15000L))→政府負債を会社が買い上げ、しかし市場からの資金調達破綻で倒産。1722再開。翌年ルイ15特権を賦与。
1721 英国ウォルポール、責任内閣制開始。1730年代にかけてブリテン帝国イデオロギーが構想。ブリテン帝国は歴史・系譜・イデオロギーを獲得する(元来、帝国構想はイデオロギーであってアイデンティティではなかったAm:246)/◉英商務省、米植民地初の正式調査→本国と植民地との一体性はない、支配権は統合されているが、領有権はばらばら→王室による全統治体制を勧告→却下されるだけでなく、逆に帝国の不安定性を後にジェファーソンらにつけ込まれる:第一発見は帝国でなく個人であって、議会は入植者に関する権利を持たない/汎大西洋的帝国構想は不発に終わるが、大西洋世界のブリテン人に単一の政体構成員意識をもたらした/◉大北方戦争スウェーデン側に勝利したロシア、正式に帝国となる。
1724-29・33 ◆ロシア、ベーリング探検隊で極東北海洋調査。ラッコ発見→毛皮商人進出。毛皮は中国へ(ラッコ絶滅寸前)。またアイヌを征服、臣民化、毛皮税(ヤサーク)徴収→松前藩は千島のアイヌを通してロシアと交易。
1729  アルスター人ドブズアイルランドは帝国の宝石。ドブズウォルポールアメリカ開発計画(カリフォリニアとイースター島)を提出。
1731 スウェーデン東インド会社創設(清・広東。小規模だが、英仏戦争、米独立戦争で巨額の利益。1813閉鎖)
1732 オーグルソープ『植民地関係文書精選』マキャベリと政治経済学をつなげ植民地正当化
1735 ◉太宰春台『弁道書』:神道は聖人の道のひとつにすぎないと神道および日本固有論を批判、国儒論争へ、幕末まで続く。
1737  スコットランド人ハチソン『道徳哲学大系』で領有権はたんなる占有では獲得できないと批判。また、母国が権力をふりかざすなら植民地は独立せよといい、「巨大で手に負えない帝国」を批判→ヒュームに影響。
1738 ボリングブルック『愛国王の理念』:海洋開放を目指す海上帝国の構想:植民地を母国の農場とし、艦隊に海を統治させる愛国的な王は、帝国と自由の理念を両立させることができる:議会を超越する愛国的王制。
1739  シパンベルグ日本隊、千島列島測量、島に露名。仙台の田代島や網地島民と船上で物々交換。安房(鴨川)上陸、井戸から水を汲み、大根数本を抜き去る。伊豆でも目撃。仙台藩、藩兵数百人派遣。安房でも数十隻の漁船が動き出し、露船、逃走。6月幕府、異国人上陸の際は捕え、逃げれば追うなと通達。シパンベルグ隊は以降も日本に向かうが濃霧のため到達できず/ヒューム「人性論」:完全な厳密さや必然性を批判(蓋然性…):空間的隔たりは時間的隔たりに劣る=西インド商人はジャマイカを憂慮せざるをえないが、遠い未来を思うひとはいない→「帝国の遠隔作用」。人道主義的な感情のグローバル化、帝国における距離と感情の関係、大西洋の空間を超える帝国的接近の概念を思考(Am:255)。帝国を<無秩序→暴力・無政府→専制→自然に破滅>と批判/◉10月ジェンキンスの耳の戦争(イギリス対スペイン):スペインに貿易税を払わなかったイギリス船長拿捕され耳をきられる。英国民、主戦論(これ以前に反スペイン感情が形成←マドック王子伝説やラス・カサス報告など:Am256)→西インド諸島の解放戦争→翌年オーストリア継承戦争(〜1748)→七年戦争/◆プロイセンフリードリヒ二世『反マキャベリ論』:領地に対して超越的・外在的なマキャベリ的君主から内在的君主像へ:君主は国民に奉仕する第一の下僕:王の身体を国家社会のなかに内在させた。
1740 ジェイムズ・トムスン愛国歌「アルフレッド」:ブリタニアよ統治せよ、怒濤を統べよ、ブリテン人が奴隷に身を落とすことはない:この頃、ブリテンナショナリズム隆盛:国旗、国歌、クリケット、チェス、バックギャモン成立/蘭領ジャワ・バタヴィアの狂乱-1745:華僑暴動、華僑虐殺。
1743 バルバドスの農園主アシュリ:ブリテンアイルランドアメリカ、東インド諸島、アフリカはひとつの帝国。
1743 匿名『市民政府論』→財産と自由をむすびつけるホイッグ(自由主義帝国主義ブリテン帝国=財産の神聖さに基づいたプロテスタント的で商業的海事的かつ自由の帝国。
1744 インド権益を巡って英仏戦争(カーナティック戦争〜1763)     
1748  モンテスキュー『法の精神』:マキャベリ的強制力からの脱却。
1756 ◉英仏七年戦争開戦:(欧州では英プロイセンVSオーストリア露仏スウェーデン西)ブリテン指導者=ウィリアム・ピット=帝国の産婆役。
1757 プラッシーの戦い:英、インド支配確立:◆敗北した仏は財政危機になり革命の遠因となる。
1758  オランダ、ジャワ支配/清、ジュンガル殲滅、新疆平定/宝暦事件天皇への闇斎派竹内式部講義に対し朝幕関係悪化を憂慮した関白ら、天皇近習を追放→山県大弐「柳子新論」尊王排幕。 
1760 露、逃亡アイヌをパラムシル島に連れ戻す。◉15世紀後半から18世紀後半にかけて北半球で小氷河期。18世紀後半期の寒冷化→社会変動の激化:米独立、仏革命(ラデュリ仮説『気候の歴史』、R.トビp86)。     
1762 ルソー「社会契約論」:全体意思(特殊意思の集合)とは異なる一般意思は常に正しい。
1763 ◉英仏七年戦争フレンチ・インディアン戦争終結:仏、米印の植民地喪失(カナダと印を英に、ルイジアナを西に割譲。英、ハバナとマニラを西に返還、フロリダ獲得)。英の覇権確立→産業革命、農業革命、人口増加:織機・紡績機の改良→工場制
1764 英、砂糖条例と印紙法で米を圧迫→独立戦争朝鮮通信使金仁謙『日東壮遊歌』:穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が周の時代にこの地に入…
1765 関東で20万人の大一揆。翌年には各地で一揆
1766 明和事件尊王思想弾圧。山県大弐ら処刑/コサック隊チョールヌイ、ラッコ漁に来ていたクナシリのアイヌらからも毛皮税強制徴収。
1767 イエズス会、全スペイン領土から追放。フランシスコ会が取って代わる。スペインのパトロナート・レアル体制:王権が教会を従属させる制度。
1768-71 クック太平洋探検、北米西海岸で毛皮発見。-70豪東海岸領有宣言。英海軍命:他の国に未発見の土地あれば先住民の同意得て、住民いなければ発見者として目印をつけ領有せよ→78年カヤック島領有宣言:船名・日付記録と銀・銅貨を二枚づつ入れた壜を木の根もとに置いただけのもの。
1769 賀茂真淵『国意考』(春台『辯道書』反駁)。仏東亜会社解散。
1770 露、アイヌ二名銃殺。翌年、エトロフ島とラショア島のアイヌ、ウルップ島・マカンル島で露人20数名殺害。露によるラッコ漁独占と強制臣民化への抵抗。またこのころコサック隊より商人が主体となる。
1771 ◉ハンガリー人でポーランドの反露運動家だった捕虜ベニョフスキー、カムチャッカ長官を殺害し脱出。日本寄港の際、ロシアの蝦夷侵略計画および来年以降の日本侵攻を蘭商館長宛書簡に記す。幕府は情報を無視したが漏れていた(平沢旭山「ケイ浦偶筆」他)。
1772 米J・ワレン:自由な憲法への崇高な愛着がローマを頂点にした。米におけるローマ主義;ローマ市民的自由=アメリカ的自由→英国君主制への拒絶
1773 教皇イエズス会を禁止(世俗化の行き過ぎ、また欧州国民国家の成立に伴い、国境を越えて自由に活動するイエズス会は邪魔。1814復興許可)
1774 「解体新書」→翻訳普及の端緒。本木良永「天地二球用法記」:コペルニクス地動説紹介/◉米ジョン・アダムズ:「ブリテン帝国」とはコモンローでなく、パンフレットの言葉。北米植民地の大半は1707の合同条約以前のもの→ブリテン帝国のイデオロギー的基礎をゆるがす/ナサニエル・ナイルス『自由二論』:海賊や泥棒が生きるための処世訓だとしてロック批判。
1775 千島航路開発およびアイヌ臣民化のためアンチーピン隊出帆、座礁/蘭商館長フェイト、林子平に露南進と蝦夷の日本領有を教諭。だが工藤平助は蘭の露脅威論は蘭の利害に関係し、陰謀論を主張(後工藤は改め露脅威論を採用)/◉米独立戦争:1740年代の大覚醒運動(回心conversion=革命と契約covenant=憲法:RB75)の影響。大英帝国分断へ。
1776 ペイン「コモンセンス」バージニア権利章典 7/4 独立宣言:トマス・ジェファソンら起草。アメリカは神の初子の国◆ジェファソン:全世代は世界をもう一度やり直す権利を持つ。また20年ごとに革命が勃発するのもよい。ジェファソンはベーコン・ニュートン・ロックを尊敬→ブレイクはこの三人の世界観を単一的観点single visionととらえ、眠りあるいは死と考えていた⇔二重的観点twofold vision/スミス『国富論』:自由主義による重商主義批判。貿易による財貨獲得は逆に金貨幣が国外に流出し、戦費増大とともに英経済は疲弊→経営危機にあった東インド会社によるアジア貿易独占を批判→関税撤廃、国債発行停止、貿易よりも労働生産力増大を(→1833)/クック第三回探検、サンドイッチ諸島(ハワイ)発見。
1778 ◉イルクーツク商人シャバリン来日、松前藩通商拒否、初の交渉[北方海防問題]。露、アイヌ臣民化、1500名の新臣民がイルクーツクに報告。
1779 シャバリン再来日、松前藩拒否、ウルップ島への渡航禁止も通告。翌年ウルップ島は地震津波に襲われ、以降ロシア商人はアリューシャン列島に勢力を移す。◆エカチュリーナ二世勅令でアイヌから毛皮税徴収禁止。(理由は現地管理者が私腹を肥やすこと、アイヌ保護のための軍隊維持の費用を避けるため。帝国は「臣民」の保護義務があった。仮想敵は日本。もし日本と紛争すれば通商もできない)/クック探検隊(クック死後):富士山らしき円錐形の山を濃霧のなかに遠望。
1780 英蘭戦争IV:蘭消耗。蘭、造船技術・毛織物業衰退、資本家、英仏へ投資。
1781 古学派の野村公台『読国意考』→海量『読国意考にこたえるふみ』
1782 凶作、地震。大黒屋光大夫「神昌丸」出帆、アリューシャン漂着、エカテリーナ二世に謁見。
1783 工藤平助「赤蝦夷風説考」(ロシア脅威論):抜け荷の取締よりロシアとは正式に交易し蝦夷地を開発すべしと建言、翌年蝦夷政策開始。同書はチチングによって西欧へ紹介。東洋学の契機/パリ条約で米独立承認/浅間山噴火→天明の大飢饉(-88)
1784 アリュート人、露人襲撃、強制労働と強姦が理由。露人狩猟団、報復。アリュート人と露人との紛争は以後も続く/八戸人口5万から2万に。仙台30万没→ 弘前人食い:橘南渓「東遊記」/江漢、銅版画/クック航海記刊行、流行。
1785 林子平「三国通覧図説」刊行、処罰/◉蝦夷地調査:東蝦夷探検隊ウルップ島に、西蝦夷探検隊は樺太調査。奉行松本秀持の蝦夷開発では諸国の非人七万の入植を提案。浅草弾左衛門も賛同し、開発従事によって百姓身分を要望/露、ソイモノフら皇帝にアラスカ諸島のクック領有宣言に対しベーリング航海を根拠に奪還すべきと陳述。皇帝、海軍派遣を指示。領有儀式の形式(ロシア国旗掲揚、壜)も決め、領有宣言を国家目標としたが、西欧情勢により中断。中国、キャフタ交易を拒否/仏、ラペルーズ探検隊、マニラ、日本海調査:千島列島南部は露支配及ばず、仏拠点は建設可能と王に報告:革命の混乱や毛皮暴落→北太平洋毛皮交易に仏参加せず/ワットにより蒸気機関、改良→川を離れ都市近郊に工場→工業都市スピノザ(汎神論)論争:ヤコービメンデルスゾーン、のちカント、ハーマンら:スピは無神論でなく汎神論→自然を生命に充ちた統一とみなすドイツロマン主義を形成。
1786 最上徳内、三名のロシア人とエトロフ島で会う。イシユヨはウルップ島は露人とアイヌとの入会地であり、日本属領というのなら紛争当事者を処罰すべきだと詰め寄る。結局ウルップ島は日露共有地であることを確認/八月家治死亡で田沼罷免。蝦夷政策凍結。松平政権:蝦夷は現状維持、露との緩衝地帯、また蝦夷に農耕を教えると日本のためにならないとする/林子平「海国兵談」執筆:江戸より阿蘭陀まで境なしの水路也
1787 大阪江戸打ち毀し/森島中良「紅毛雑話」/露人と神昌丸漂流民、船を合作。アムチトカ島出帆、ニジニ・カムチャッカ到着。
1788 「蘭学階梯」。長久保赤水「地球万国全図」/浮浪人増大のため出稼奉公制限令/明誠堂喜三二「文武二道万石通」発禁/神昌丸船員イルクーツクへ。帰国を願うが、露役人になれと皇帝回答/江漢が地図を人々に見せると、インド付近を見ていた女が極楽はどこかと尋ね、江漢:世界図は丸い物、其外は天。此様な世界が天の中にいくつも有。其うちに極楽世界があると答える:単一面の世界像と面的世界像/2/7英、流刑植民地として米の代わりに豪領有。英、増大する人口と犯罪者対策(国内刑務所が飽和)で入植。アボリジニをスポーツ狩猟。
1789 ◉仏革命。8月人権宣言/蘭癖大名福知山藩主)朽木昌綱『泰西輿地図説』:西欧に三帝国:伊(ローマ),リュスラント(露),トルコ。ケイセル=王、モナルク=覇王、コヲニンキ=王。Keizerdom=「帝国」。「帝国」という語は江戸中期に翻訳出版された隋の王通『文中子』に。皇-帝-王-公の尊号序列:「強国は兵を、覇国は智を、王国は義を、帝国は徳を、皇国は無為をもって戦う」/◉5月クナシリ・メナシの戦い:アイヌ蜂起、和人71人殺害。原因は〆粕生産労働搾取と姦通。首長ツキノエの協力で鎮圧。37人のアイヌ処刑。幕府、アイヌ蜂起の背後にロシアを見、本格的に蝦夷進出、苛烈な支配開始:アイヌ人口は二千いたが幕末には半減、明治13年には955人、明治24年には381人/恋川春町「鸚鵡返文武二道」、唐来参和「天下一面鏡梅鉢」発禁/尊号事件/◆ヌートカ湾事件:北米西海岸占有権を主張する西、英米船拿捕。翌年、英、謝罪賠償要求→西、仏露オーストリアの協力得られず屈伏。
1790 旧里帰農奨励令/石川人足寄場(社会復帰施設、心学を教育)◉寛政異学の禁:徂徠学を抑圧、朱子学の正学化/出版統制/バーク「仏革命の省察」:平等思想によって国家が解体されると反転してファシズム軍事独裁に。理性(自己)への過度の信頼よりも、伝統・制度を知ることを。
1791 アイヌ救済のため最上徳内「御救交易」またアイヌを日本人の種類とする/三月京伝処罰、蔦谷重三郎財産半分没収/イルクーツク博物学者・商人キリル・ラクスマン、神昌丸を連れペテルブルクへ。神昌丸船員、エカチェリーナ皇帝に謁見/◆マカオで毛皮取引不調の米船、毛皮を売りに熊野に来航(堅徳力記=ケンドリック船長)/英アルゴノート号、対馬に(オランダと同じプロテスタントであることを強調しろと指示を受けていた):二週間ほど日本船に声をかけたが退去の身振りで断念、朝鮮へ。朝鮮も貿易制限で中国と日本だけに許可していたため拒否。 ※両米英船はヌートカ湾事件に関与、太平洋の東西が連接/ベンサム『Panopticon』/◉仏憲法:nation(国家・国民)主権→抽象的nationは主権者で、その代表者はnationの利益を代表する(純粋代表制)ゆえ、代表者への命令委任を否認。これに対して人民主権派は、人民が主権者であり、具体的な人民の利益が政治に反映されるべきで、命令委任は肯定。
1792 ◉9月ロシアのアダム・ラックスマン(キリルの二男)ら使節根室入港、アイヌ偵察に対し大砲を放つ。光大夫ら三人の漂流民引き渡し。ロシアは名分を持っているので定信悩む。/12月、幕府、異国船への警備を諸地域に命じる:抵抗すれば船を壊し、捕らえよ。
1793 ,6月使節団、松前へ。ページェント行列。日露会談。ラクスマン、正坐を拒否。漂流民謝礼と長崎入港許可証の「信牌」を渡す。定信、江戸入港を恐れていた。このとき使節団は長崎に行かず帰国/ルイ16世、革命広場で処刑。モンターニュ派独裁。公安委員会/フィヒテ「大衆の判断を正すために」:国家は個人に従属する。革命擁護。
1794 ◆光大夫と桂川甫周『北槎聞略』:「世界に四大州(アジア、西欧、アフリカ、アメリカ)あり、そのうち帝国は七つ、皇朝はそのひとつ」とある。ヒュブネル『ゼオガラヒ』(1769)などを引いて甫周は、ロシア・ゲルマニア・トルコが「皇帝統御国=帝国」、ポルトガル・スペイン・イギリス・フランスが「王侯所理国=王国」、シナ・ペルシア・インド・日本が「帝国」。→この「七帝国」情報が「帝国」的自己認識と天皇優位の認識へ(平川p.124,130)/桂川甫周「地球全図」にクック航路記入さる(原図はラクスマン持ち込み→海洋帝国イギリスを認識する)/ロベスピエール派処刑される。恐怖政治への報復として白色テロ/仏革命軍、蘭領土制圧:蘭海上帝国の終わり。
1795 オランダ共和国滅び、翌年バタビア共和国ができると仏の属国となり、英と交戦/英、マラッカ獲得/イルクーツク商人シェリホフ、ウルップ島に40人入植/若宮丸漂流、ロシア人に保護され、イルクーツクへ。しかし翌年皇帝没し、商人間で通商計画を巡り衝突
1796 英船エトモ来航、測量。幕府、蝦夷地見分役人を派遣、北方警備。エトロフ島に標柱「大日本恵登呂府」を立てる/白蓮教徒の乱(〜1804)
1798 本田利明(重商思想)「経世秘策」:焔硝・諸金・船舶・属島の開業が「海国日本」の四大急務/「西域物語」:人口増加のために航海・交易が必要:鎖国後日本は無知(儒学経世論の「藩意識」を無視、中国でなく西洋を手本):ロシアの千島列島属国化→アイヌ撫育、カムチャッカ植民提案。
1799 ◉蝦夷、幕府直轄地/オランダ東インド会社解散:蘭植民地、仏と対抗する英国に接収/シェリホフ案のロシア・アメリカ会社設立認可(国策会社)/フィヒテ事件(無神論論争):急進的民主主義者フィヒテドレスデン宗教局の論文摘発によりイエナ大学追放:神とは道徳的世界秩序、それ抜きに実体としての神はない(神を否定したわけではない):ゲーテ、シラーら政府批判:フィヒテ後任にシェリング、シュレーゲル、ヘーゲルヤコービやシュレーゲル、フィヒテを支援。翌年ベルリンへ。事件を反省したフィヒテは以降、自我の根底に絶対者を置き、自我を絶対者の像とする。また「閉じられた通商国家」(1800)では権威的社会主義
1800  ◉この頃迄世界経済の中心は中国(A・フランク)。中国は全貿易相手に対し黒字。絹・陶磁器など手工業生産物(p.218)。清1810-20には2600万㌦黒字、英1828-1836には3800万㌦の輸入超過(ジョンソン「近代の誕生III」p.113)→銀が清へ流出→重商主義「貨幣の海外流出は損」→印で栽培した阿片を清に密輸出(三角貿易の頂点)→清で阿片消費拡大→銀はインドを経由し英へ/伊能忠敬蝦夷測量/エトロフ島に商取引会所設置。アイルランド、英に併合。
1801 ウルップ島に標柱「天長地久大日本属島」、露人にアイヌとの交易禁止を通達/◉ケンペル『日本誌』部分訳の志筑忠雄『鎖国論』:「ケイヅル=帝号」として日本の天子・公方、シナの帝、トルコのミュルタン、ロシアのカサル、インドスタンのモコル、ゼルマニアのケイツル→篤胤らにも影響/英アイルランド併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国/米第二次大覚醒運動:キャンプミーティング(野営天幕集会)
1802 露 アレクサンドル皇帝、世界周航探検許可。
1803 山村才助「訂正増訳采覧異言」(写本流布していた白石「采覧異言」の影響):インペラトヲル・ケイザル=帝者。帝国は神聖ローマ帝国・露・トルコ・シナ・ムガルの五つで「西人、また呼びて帝国とす」る国にペルシア・エチオピア・モロッコ・シャム・日本・マタラム(ジャワ)の六つ→水戸学に影響/函館奉行アイヌのウルップ島渡海を禁止、ロシア人退去が目的/4月若宮丸漂流民、露皇帝に謁見。7月レザーノフ使節団出帆:金銀島探検も一目的。
1804,10月レザーノフ長崎入港:重警備で使節団、武装解除される。幕府指示を遅延/ハイチ革命。ナポレオン皇帝に/トレビシック、蒸気機関車発明
1805,◆3月幕府、露に通商拒否を通告:長崎では幕府批判。通商反対派の老中戸田氏教と天皇が通じ幕府と対立:天明期以降、朝廷再興の動きがあり、天皇の権威が徐々に浮上/百姓の武芸習得禁止(庶民の脇差は許可されていた)
1806-7 ◉文化露寇事件:ロシア、樺太侵攻:フヴォストフ、日本人居留地襲撃◉ナポレオン欧州支配、大陸封鎖(対英)、蘭→ホラント王国、神聖ローマ帝国滅亡:領邦国家は何にも従属しない存在となる:反ナポレオン感情とsovereignty(主権・至高権)の行き先としての国民国家ナショナリズム勃興→君主主権派と人民主権派で対立、折衷説として国家主権説(→天皇機関説に反映)/橋本稲彦『辯読国意考』
1807 幕府、天文方の高橋景保に世界図作成を命じる/大槻玄沢『環海異聞』:インペラトリ=帝爵=帝号の国にロシア・シナ・日本。玄沢、ゼルマニア・トルコ・インド追加(ペルシアはすでに1798滅亡)→「六帝国」論:日本は土壌狭小なりといえども皇統一世万古不易。帝爵の国号にして、他の諸邦に優れるもの、外域のもっとも尊重畏服する所以/フルトン、蒸気船発明/イングランドスコットランド合同/フィヒテドイツ国民に告ぐ」:権力とは区別されたヒエラルキー(反対物の包摂:Dumont)。普遍性とゲルマン性の同一視。
1808 英、ポルトガルマカオを攻撃◉蘭国旗を掲げた英船フェートン号:長崎で蘭商館員拉致、食料要求:当時長崎は鍋島藩年番で入港予定もなく番兵もわずか、長崎奉行佐賀藩切腹→佐賀、軍事改革:ナポレオン戦争の余波:当時蘭国旗を掲げていたのは世界中で出島とアフリカのエルミナのみ。
1809 アダム・ミュラー『国家学要綱』生きた人格としての国家、身分制国家
1810 高橋景保「新訂万国全図」:樺太は島/◉レザーノフの船長クルーゼンシュタイン『世界周航記』で日本海軍の弱さを記す(七帝国論も含めそれまでの日本強国論は利益を独占したいオランダの戦略だった)。12門の大砲と軍艦一隻あれば十分、サハリン侵略可能とも/ホラント、仏直轄領へ。
1811 英ラッフルズ、蘭東インド占領(-16)/ゴロブニン、エトロフ測量。日本、国後で砲撃、捕囚。露のリコルド、高田屋捕囚、人質交渉/◆清、欧人の内地居住・布教禁止。英は対清貿易赤字対策としてアヘン売却。清と英は貿易を巡って小競り合いを繰り返す。13年阿片禁止、15年阿片輸入禁止/江漢『春波桜筆記』で「上、天子将軍より、下、土農工商非人乞食に至るまで皆もって人間なり」
1812 リコルド来航、白旗。日露交渉。ナポレオン、露侵攻。平田篤胤霊能真柱』:幕末に編纂された篤胤講義録「玉襷」で二柱神(イザナギイザナミ)が国土を生成してのち青人草(人民)を生殖し…」人民は大御宝。ムスビ(産霊神)=産む力=生成原理→包括的
1813 英総督ラッフルズ、蘭船を日本へ派遣。インド独占貿易終了/ナポレオン帝国崩壊→蘭復興。
1814 幕府、エトロフ島を国境に/ロンドン条約:英=マレー半島、蘭=スマトラ/◉ナポレオン、同盟軍に敗北、ブルボン朝復活◆ウィーン会議:正統主義Legitimism:革命以前に戻す復古主義
1816  英軍艦、琉球に通商を請う。朝鮮にも来航。 ◉英、貨幣法で金本位制開始、欧州各国追随:金平価によるポンド信認〜世界大戦Iで停止。
1817  英船、浦賀沖に来る/工藤平助の長女只野真葛『独考』で儒教批判、古代女権、ロシアの恋愛結婚を憧憬。
1821 ヘーゲル法哲学:国家は客観的精神であるゆえ、諸個人は国家の成員である限りでのみ客観性・真理・倫理を持つ。合一そのものがそれ自身真実の内容であり目的であって、諸個人の使命は普遍的生活を送ることにある」国家=精神=実体。個人はその属性。国家=実体なしに個人は存在しない。
1822 ヘーゲル歴史哲学講義「イングランド人ならだれでも、自分たちこそ大洋を航海し、世界貿易を手中にし、東インドとその富を所有し、議会や裁判所を開いた、というだろう。民族に自尊心を与えるのはこうした行為なのです」    1823  佐藤信淵「宇内混同秘策」 
1824 ◆武装英人12人常陸上陸、薪水を要求。捕えられ、会沢正志斎と筆談:英人は捕鯨のためと弁明、会沢は英帝情報を知っており納得せず。翌年『新論』:甫周の七帝国説、山村の十一帝国説を引用、父子一体論(一気論的生命観)を基礎に、皇統一姓無窮論を提唱。日本は皇統一姓であるがゆえ優越/英蘭協定でマレー半島の英支配確定→1826英領海峡植民地/英緬戦争:ビルマベンガル割譲要求が原因/豪モアトン流刑植民地建設。
1825 ジャワ戦争(蘭対マタラム王家ディプヌゴロ)/異国船打払令/◉英、蒸気機関車発明(→鉄道産業)・機械輸出解禁→産業化の世界化。  
1828  豪、開拓地に侵入するアボリジニを英兵が自由に捕獲殺害する権利を与える法律;アボリジニ、ブルーニー島の収容所へ→90%以上減少。
1830 オランダ、ジャワに強制栽培制。 七月革命。ベルギー独立=蘭、工業地帯喪失。
1832 ジャーディン・マセソン商会(JM)広州で設立:阿片密輸と茶輸出。阿片戦争でもロビー活動。ロスチャイルド系。
1833 中国独占貿易終了により東インド会社は商事会社としては終わる。
1834 英国の貧困問題で救貧法改正→自助の精神(スマイルズ)が奨励=「自己責任」の論理
1837 ◉米モリソン号浦賀入港、撃退されるが、防衛力の弱さを確認:貿易商キング、帰国後、江戸湾封鎖による開国要請を提案/大塩平八郎の乱
1839 蛮社の獄鳥居耀蔵によるフレームアップ。モリソン号事件に関して長英「戊戌夢物語」で異国船打払いを批判、また崋山に知識を借りた江川英竜に鳥居が敗北したことが背景。崋山「慎機論」で幕府批判をしたかどで投獄されるが、「慎機論」は逮捕以前に公表されておらず、家宅捜索時に発見されたもの。崋山は投獄後、二年後に自殺。(また鳥居は遠山金四郎と反目、失脚→悪役のモデル)/長英『わすれがたみ』:皇国は…儒仏弐学を尊奉せざるなく、儒は半ば支那人、僧は殆ど印度人也。然れ共、人只其学を奉じて其国を慕わず。未だ其国を以て支那印度に臣たらず(義満公明の封を受く。我国開闢来の恥辱とす)。未だ一人の皇国を叛きて外国に降る者を聞ず。…東方滄溟の中に孤立して永く帝国と仰がれ給ふ、実に目出度神国也。
1840 ◉阿片戦争(〜42):阿片貿易拒否を理由に侵攻。また香港割譲も要求。英議会賛成271反対262の僅差で通過。 
1841 ジョン中浜万次郎漂流/ジャーディン・マセソン商会香港へ本社移転。
1842 年水野忠邦天保の改革人情本出版禁止、処罰。直後、柳亭種彦死。歌舞伎小屋を浅草へ強制移転、官許制にし、江戸三座制(中村、市村、森田)/西インド銀行創設→1845東洋銀行Oriental Bank:1851セイロン銀行買収。
1844 蘭国王、日本に開国を進言。
1845 英船、長崎来航/テキサス共和国(1836メキシコから独立)、米に併合→ 1846-82 メキシコ戦争:テキサスの帰属を巡る。
1846 米・デンマーク浦賀に来航。 英、ラダック占拠。
1847 エマーソン、ユートピア個人主義をもって社会主義批判:資本主義を擁護ではない:国家も最小に→◉19世紀半ばには社会主義はすでに米社会では拒絶。社会主義はフランス的革命(救世)思想として到来したが、それはアメリカ的革命(救世)思想にとってライバルとなった(RB:224)。米にとって「革命的」はよいが、「無神論・物質主義(唯物論)」は許されなかった。
1848 ◆仏二月革命で王制廃止。第二共和制→労使対立激化、ナショナリズム自由主義運動→ウィーン体制崩壊。ベルリン・ウィーンで三月革命ハンガリーで翌年コッシュートの乱、イタリアでリソルジメント運動。「共産党宣言
1849 英航海条例撤廃→自由貿易主義確定/幕府、海防強化令:“総国”の力:百姓・農民も国防の士[総動員体制]。以降、農兵が採用。
1850 太平天国の乱(〜64 死者4千万)。ジョセフ・ヒコ漂流、米船に:諸事扱い悪しく米一粒呉れず足蹴にすることありて怨み不平を抱き…支那人を常に取扱ひなれし舟にてこの例にならふが故なり。支那の国風として外国を賎しめ無礼を為すを国威と心得違ひを致すによって、万国の人、又恒の支那人を取扱ふには無体粗漏なり→米の見解が反映。支那は万国より先に開け賎しからず、然れども自負甚だしく…無礼…英仏の争戦争(アロー戦争)起こりたる時も支那を助くる国なく遂に大敗をなして万国にいやしめ軽ろんぜられ…→「支那」像の形成(構造的には後の日本像とも相似)
1852 ペリー父島にピール島植民政府/英、ビルマを挑発し、英緬戦争II;ビルマ、国土を半分喪失。
1853 ペリー四隻で来航。水戸藩徳川斉昭「海防愚存」:和でなく戦を主とすべし、日本は外夷では帝国と恐怖致し居り、往古の三韓征伐、中古の蒙古撃退、近古の朝鮮征伐・耶蘇教禁絶によりその御武威が海外にふるわれ…ペリーが我儘に測量は、開闢以来の国恥(当時,米国測量は国際法違反)
1854 ,1月ペリー七隻で再来航:人道支援を要求しつつメキシコと同じようになりたいかと恫喝。林復斎:人命を重んじるのであれば戦争に及ぶ義はないと反論[幕府外交は無能ではなかった]。3/28クリミア戦争開始:トルコ利権。◉3/31日米和親条約:交換比率1ドル=一分銀1枚→二年後、このレートでは日本の物価が三倍になることを後ハリスが下田の生活で知り、1ドル=一分銀3枚へ→当時日本では金銀交換比率1:5で欧米では1:15→欧米では銀貨15枚は金貨1枚、日本では金貨3枚→両替するだけで3倍→商人ら純度の低い銀貨メキシコドルを大量に持ち込み、一分銀に変え、さらに金貨に変える:莫大な金が流出50万両〜一千万両(幕府年間予算は200万両)→物価騰貴→幕府崩壊。8月英カムチャッカ攻略。防衛にあたったプチャーチン、翌年日本と日露和親条約。9月英砲艦外交で日英和親条約
1856,3月クリミア戦争で露敗北:英仏の覇権強化、露は近代化・自由化→農奴制解体◉10/8 英船籍を名乗る中国船アロー号を清の官憲が臨検。12名を拘束、3名を海賊容疑で逮捕。広東領事ハリー・パークスは臨検不当、また逮捕時に英国旗を降ろしたことは大英帝国への侮辱として抗議。清の葉名チンは国旗はなかったと主張するが、パークスは強固に主張(実際には船籍登録は期限切れ、また英国旗を掲げる権利はアロー号にはなく、逮捕は合法) 香港総督バウリングは海軍に広州の砲台を占領させる。広州で反英運動が起こり、居留地が焼き打ちされる。英は仏と共同出兵→アロー戦争(〜60 清と英仏)
1857 西欧で経済恐慌。インドで大反乱、東インド会社軍が鎮圧。12/29英仏連合軍、広州占領。
1858,2月北京で交渉決裂、天津制圧。天津条約:英仏へ賠償、公使駐在、基督教承認など/◆仏安戦争(〜62):仏西、ベトナム侵攻。コーチシナ割譲/7/29日米修好通商条約:ハリス、アロー戦争に出兵した英仏が日本侵略する可能性を指摘、それを防ぐには米とアヘン輸入禁止を含むこの条約を結ぶしかないと説得。また金銀交換比率では日本は金貨基準を主張するが、米は銀貨基準を押切る。ハリスは帰国後その強欲を批判され名誉失う/英国、インド併合:東印会社間接統治から直接統治へ。東印会社解散、ムガル帝国滅亡/米第三次大覚醒運動。
1859 ,5月初代総領事オールコック来日、軍馬の売却を要請。6/17 障害物除去の最中に英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチン軍による砲撃を受け、上海へ撤退。1万7千の大軍で進軍。10月安政の大獄:井伊直助、攘夷派弾圧。橋本左内吉田松陰ら処刑。
1860, 3/20日米修好通商条約批准のため77名渡米:小栗只順、独断で通貨交渉。交換不当を実証し(純金比率16:8)米承認。しかし条約改定に至らず→交渉が幕府の指示ではなく、また新しい万延小判の鋳造のため)3/24桜田門外の変/英仏、北京占領→10月露公使イグナチェフ調停で◉北京条約:天津開港、九竜半島割譲、中国人労働者の雇用する権利が認められる=苦力貿易の承認→英商社、中国人労働者を豪米カナダに送り込む→豪で反中暴動(Lambing Flat Riots):阿片戦や太平天国乱で流浪した中国人労働者に対する。のち豪労働運動は白豪主義社会主義の二つをスローガンとする/露ウラジオストク(東方征服)港建設/崔済愚、東学を興す(西学=基督教に対抗),64処刑/デッケル小説「マックス・ハーフェラール」で蘭栽培制を批判→競争力のなくなった商品より順に廃止→油田開発へ移行
1861, 3/5露農奴解放令→ナロードニキ運動。3/14露軍艦ポサドニク号、対馬芋崎占拠、永久租借を要求:折衝を経て8/26露領事と英オールコックの仲介(勝海舟の提案)で撤退。折衝にあたった外国奉行小栗上野介は老中と対立、辞任。露はこれより朝鮮に行くと明言→朝鮮服従の必要と幕府認識。/4/12米、南北戦争(-65)/JM商会のグラバー長崎に代理店。討幕運動に武器等販売。薩(五代友厚)長(博文)・竜馬・岩崎弥太郎(三菱)を支援。
1862 薩摩の五代、高杉晋作、清の上海を調査、「英ノ属国」。東禅寺事件・9/14生麦事件薩摩藩による英人殺害:賠償金10万ポンド)。公武合体政策で家茂(もち)、和宮と結婚、義兄は孝明天皇となる。翌年229年振りに上洛、将軍は天皇と攘夷を誓う。
1863, 1/9英国枢密院、対日海上封鎖など武力制裁勅令可決 4/9足利三代木像梟首事件。首謀者の一人師岡正胤は平田派の国学者で秋水の妻千代子の父。
◉5月下関戦争(長州対米仏)7月薩英戦争(〜64 長州と英仏蘭米。市街を焼かなかったことを理由に300万ドル償金:ホープ中将は賠償に応じない場合は江戸・京都・大阪占領計画も検討。善戦した薩摩と英国結託)/竹尾正胤『大帝国論』/仏、カンボジア保護国に。第一インターナショナル(-76)。
1864,8/5英仏蘭米、下関砲撃:彦島租借要求:賠償金300万㌦は幕府とのち明治政府が支払う。レオン・ロッシュ来日。英国を信用できない小栗、仏に造船所建設について相談。海舟は海軍人材育成に500年かかると批判、小栗「土蔵附き売家の栄誉を残すべし」と幕府滅亡を見込んでの発言。横須賀ドック建設、仏に委任。仏の幕府支持へ(仏外相は後に薩長支援にまわりロッシュは罷免)。8/20幕府、長州征討。
1865,3月香港上海銀行HSBC:JMら出資。翌年横浜支社。横浜正金銀行の範となる(→東京銀行1982HSBCに吸収・現BTMU)/4/14リンカーン、劇場で暗殺。8月小栗「商社組織(日仏組合商法)の伺書」提出;外国商人の貿易独占や密貿易対策。◉9/16ハリー・パークスら英米仏蘭軍艦、大阪湾に侵入、威圧的に兵庫開港を要求(背後に薩摩)。10/5開港勅許。10/13慶喜休戦(薩摩が動かないため←龍馬の密約薩長同盟
1866 ◉仏、宣教師殺害の報復で朝鮮江華島侵攻。米、大同江侵入→幕府使節派遣→朝鮮に二度拒絶、倒幕で中断。フリーメイソン横浜ロッジ設立。8/29家茂、大阪城で二十歳で病死(暗殺?)。翌年1/30考明天皇35才で病死(毒殺?)
1867,5月兵庫開港。6/5小栗「兵庫商社」設立→薩英慌てる。8月ええじゃないか乱舞。◉10月大政奉還、12/9王制復古restoration(小御所会議)、幕府滅亡(神武創業之始に原き…=神武への遡及:大国隆正に学んだ玉松操が進言):西郷江戸攻撃を計画していたがパークス反対(横須賀の仏を意識)/矢野玄道『献芹語』(帝国のプログラム)/ナポレオン三世、軍事顧問団派遣。シャノワーヌ、ブリュネら来日。
1868,1/11神戸事件:仏と銃撃戦→1/15新政府、幕府の条約遵守をいい列強局外中立:表向き攘夷を唱えた新政府による転向→2/15世直し一揆
戊辰戦争(1/27鳥羽伏見の戦い・4/20-9/24東北戦争・12/4-翌6/27函館戦争):島原の乱以来の戦争:4/6小栗斬首。小栗の中間三野村利左衛門、すでに小栗を通じ三井と組んでいたが、以降三井に新政府支持を忠言/松平正質、敵頬肉を酒肴、薩兵、胆煮食。会津領民落城に同情せず。函館榎本軍による強奪:巷で「榎本ブヨ」。12/7東北諸藩へ寛大な処分:勝とパークスら画策。12/28列強、局外中立解除:戦中英仏米は軍艦配備、戊辰戦争は列強の監視下に行われていた。激しい攘夷活動に植民地化をためらわせた(平川344)。
◉3月神仏判然令:神道原理主義による廃仏毀釈運動:平田派・水戸学→仏教は外来ゆえ耶蘇対抗のためには神道国教化のみ:正志斎『新論』仏教は愚民を欺く、天皇天照神を祀り、藩主らは土地の神を祀り、村は産土(うぶすな)神を祀れば神々は皆天皇の誠意の及び、心を一にした国家ができる。/鴻雪爪建白書で基督教解禁止むなし。小野述信と衝突→岩倉使節団、西洋で信教の自由を避難され1873高札の撤去で黙認へ。
◉佐田白茅(はくぼう)、征韓建白:「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速かに手を容るるが宜しい」 また木戸孝允も4月岩倉具視宛書簡で「朝鮮位は皇国版図に加へ申したく」
1869 ブリュネ帰国、翌年普仏戦争に参加。のちパリコミューン鎮圧。米ラビのワイズ「歴史における我が国の位置:神に任命された自由の旗手、「われわれは元は英人、独人、仏人、西人…であるが、そのいずれでもない。この土地に生まれたすべての子どもはアメリカ人である」◉朝鮮に新政府発足通告→朝鮮、「皇」「勅」の文字は中国皇帝のみ使用として拒否 =書契問題
1870 米国、朝鮮漢江で通商要求。◉3月白茅・森山茂、広津弘信ら建白:国書受取拒否は皇朝陵辱→皇使説得→「万一、我に拒敵せば我れ彼を鏖(みなごろ)すとも万国公法(国際法)に於て何の辞柄あらんや」12月釜山に吉岡弘毅/4月政府、人胆・脳・陰茎(妙薬)密売禁止/グラバー高島炭坑経営/豪クイーンズランドの砂糖農園の労働力としてカナカ人ら連行(Blackbirding)/パリロスチャイルドバチカンへ資本提供→バチカン銀行創設
1871 ◆朝鮮、米と江華島で交戦。 岩倉欧米視察:要人が二年海外に。パリコミューン:西園寺公望◉新貨条例(金本位・円)・政府紙幣発行(貨幣統一:藩札回収→岩崎、後藤象二郎インサイダー取引で事前に藩札買い上げ、巨額利益):実態は金銀複本位制=清・アジアは銀本位制:英東洋銀行の助言で銀貨鋳造。/10月台湾パイワン族琉球人漂流民殺害→清へ賠償請求するが管轄外として拒否→3年後,出兵/尾去沢銅山事件:井上馨私物化、江藤追求。
1872,9月花房義質、朝鮮へ:朝鮮拒否「日本人はなぜ蒸気船に乗り洋服を着るのか。華夷秩序を乱すつもりか」/吉岡弘毅、外務省依頼退職→'74征韓は道義的に不可と建白(翌洗礼)/10月倭館を日本公館に変更→朝鮮激怒、貿易停止/東京府、劇場課税、歌舞伎は貴人・外国人にふさわしい道徳的筋書き、狂言綺語の自粛を通達。三座制解消/ディズレーリ:帝国連合のヴィジョン:拡張より既得植民地の維持:グラッドストンの平和主義に飽きていた国民に支持/前年廃藩置県琉球を鹿児島県に編入琉球藩を強制設置→清、反発/江藤、司法制度整備→山城屋事件:山県有朋、陸軍予算を無担保で借出す:江藤追求。
1873,1月徴兵制(士族解体)◉[明治六年の政変]朝鮮の拒否にも関わらず再三派遣→4月朝鮮で反日態度→6月征韓論:派兵論-板垣:西郷-派兵でなく派遣(8月派遣決定)→留守政府のため大久保ら反対(9月使節団帰国)10月派遣中止:大院君が西郷に耳を貸さず西郷は殺害され、開戦せざるをえなくなると予想→清・露・英との折衝など外交戦略的に考えて出兵は不利と大隈は判断。西郷板垣江藤ら下野/第二次仏安戦争/弥太郎、三菱商会(←九十九商会←土佐商会):海運業→日本郵船
1874,1/24板垣愛国公党を結成:天皇制を基礎とした天賦人権論→民選議院設立建白、翌年愛国社結成。2月佐賀の乱:江藤派、政府より排斥◉台湾出兵:清アモイ駐在米領事リ・ゼンドル「懲罰・出兵すべき」と副島種臣に助言、ゼンドル外交顧問。清に利権を持つ英ハリー・パークスや米は反対。しかし西郷従道率いる不平士族ら独断で出兵→国際法を知らず清への通達や根回しをせず→交渉で清は義挙とし賠償金を日本に支払うことで日本軍は撤退→琉球の日本帰属の義→琉球は清との関係存続を希望→1879/加藤弘之「国体新論」:天賦人権論。
1875,3月白茅「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈狡獰固陋傲頑、 之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉んぞ涖(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲さざる也、 況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜有りと謂う、以って耻辱を皇國に興う、 君を辱らるれば臣は死す、實に不戴天の冦(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば 則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」◉9/20江華島事件→翌日朝修好条規:ペリー来航の反復/投射。◉4月元老院開設に伴い皇位継承憲法明文化の議論→男系正統を原則としつつ例外として女系を認める→東久世通禧、反対。元老院案は岩倉らによって廃棄。新聞紙条例・讒謗律;言論封鎖。歌舞伎『吉備大臣支那譚』:邪馬台詩解読の場面。
1876 メルヴィルクラレル』:トルコ人のように残酷なアングロサクソン/他のいかなる人種からも愛されない/拝金主義の海賊ども/地獄の太鼓が聞こえてくる/民主主義の暗黒時代。/豪、純血のタスマニアアボリジニ絶滅/3月廃刀令、8月禄支給廃止=武士特権剥奪。10月神風連、秋月、萩の乱
1877 西南戦争:戦費のため不換紙幣増発→インフレ/元老院皇位継承編」宮廷史局「大政紀要」で南朝正統論/露でナロードニキ、小作農数千と反乱→鎮圧→革命集団「人民の意志」:テロリズム
1878 大久保利通暗殺/スコットランド人マクレオット日本ユダヤ民族説/6月「千代田神徳」で有職故実を再現開始(歴史の再現)10月団十郎「斉藤実盛」で源平時代の服装→魯文、「活歴」(活動する歴史)批判
1879  海江田信義による非難で、加藤弘之東京大学初代綜理)は天賦人権説を否定、社会進化論国家主義へ/末松謙澄「成吉斯汗」をロンドンで出版(義経説。欧州で日本認知させるため)/◉沖縄県設置=琉球併合→清、反発。
1880 福沢・交詢社:1380名:英型議会を範→国会開設運動→集会条例(板垣、反福沢で兆民へ)インフレと大減税による農民の富裕化で普及(民権運動へ)12月第一次ボーア戦争(〜翌3/23):金・ダイヤ鉱山利権を巡り蘭系ボーア人と英国:英敗北。
1881 明治14年の政変(独君主制派=伊藤と英議院内閣制派=大隈+福沢とが対立、大隈罷免。交詢社憲法では内閣責任制)/松方デフレ=インフレ対策:1885には銀本位制/秋田事件(挙兵計画発覚)/露で皇帝アレクサンドル二世暗殺:「人民の意志」による
1882 福島事件 ◉2月から7月まで朝鮮革新派の金玉均、日本遊学、諭吉に学ぶ→7月壬午事変:保守派(大院君)による革新派(閔妃)と日本公使館員殺害→日清両軍漢城駐留/仏、ハノイ制圧/兆民「民約約解釈」/団十郎の「活歴癖」悪評/日本銀行創立/加藤『人権新説』:民権思想を批判/吉岡、福沢を批判:「我日本帝国をして強盗国に変ぜしめんと謀る者」「いたずらに怨を四隣に結び、憎を万国に受け、不可救の災禍を将来に遺さんこと必なり」
1883 高田事件◉清仏戦争(〜85仏、越南とカンボジア併合、仏領インドシナ連邦建設)/団十郎、求古会発足(有職故実の研究、綺堂の父も参加)
1884 英フェビアン協会(カーペンターら)/群馬・加波山秩父事件/12月甲申事変:朝鮮革新派のクーデタ:清仏戦の隙をねらったが清介入で失敗→諭吉、失望。金玉均、日本に亡命、頭山満支援金供与、94上海で暗殺。
1885,3月諭吉「脱亜論」10月警視庁、劇場の興行を8時間に。11月大阪事件:大井憲太郎が朝鮮保守派を一掃しようとクーデタ画策、事前に検挙(壬午・甲申事変のパロディ)。透谷、離脱→「内観的夢想」/ドイツ帝国(1871-1918)の植民地獲得開始:南洋諸島ナミビアルワンダなど/米ストロング『我が国』:世界の耕作可能な土地はまもなくなくなる。世界は新たな歴史的段階、諸民族の最終的な競争の段階に入る。世界で最大の自由と最も純粋なキリスト教と無類の力を持つアングロサクソン民族はいまそれに備えて鍛錬している:人類アングロサクソン化/英緬戦争IIIでビルマ王朝滅亡/グラバー三菱相談役-麒麟麦酒創設/陸羯南、ジョゼフ・ド・メーストル「主権言論」翻訳出版。
1886 長崎事件:清の水兵乱闘→玄洋社民権論から国権論へ。9月演劇改良会:女形・女優・花道廃止/10/24紀州沖でノルマントン号事件(英船のアジア人種差別→領事裁判権をめぐり不平等条約撤廃運動)/依田学海と団十郎、協力して活歴劇(歴史の再現)/柳原前光皇室典範原稿で男系主義、
ビルマ、英領インドに併合。
1887 , 4/26天覧歌舞伎。5月音二郎、神戸楠公社で「改良演劇西洋美談、斎武義士自由の旗揚」6月四迷「浮雲第一編」7月小中村義象「国学和歌改良論」8月兆民「平民のめさまし」:民尊官卑。またルソー主義でもなく、仏革命を支持せず。英君主制を支持、天皇制と民権は矛盾せず「君民同治の社会」。伊藤ら西欧主義を批判、のちに遠山満に託す。◉12/26保安条例(1898廃止)で民権派570名東京追放/ホセ・リサール『ノリ・メ・タンヘレ』
1888,1月兆民、東雲新聞。2月武津「国学和歌改良不可能論」3月四迷「学術と美術との差別」4月雪嶺ら政教社『日本人』、陸羯南「東京電報」創刊(翌「日本」)10月依田学海「政党美談淑女の操」/演劇矯風会/12/3角藤、大日本壮士改良演劇会/豪、中国人移住制限:白豪主義white australian policy
1889 ◉2月大日本帝国憲法皇室典範発布。正式国号を大日本帝国。独帝国(1871-1918)に倣う。山県有朋総理就任:超然主義政党政治を嫌い、議会と敵対)で軍備拡張/西欧主義の森有礼暗殺、秋水賞賛。4月蘇峰「言論の不自由と文学の発達」、第二インターナショナル(-1914)。桜痴ら歌舞伎座創設(洋風木造、内部は和風)。
1890 雑誌「国本」:国本主義を提唱。 11月第一回帝国議会:山県の国是演説:欧米と対等になるため東洋進出[侵略論]。教育勅語
1891 井上哲次郎勅語衍義」;東洋諸国は微弱、日中のみ。然し中国は古典に拘泥、独り日本は進歩の念、日月に興り「四方皆敵」頼むべきもの…四千万の同胞。然れば我が邦人たるもの、国家の為には一命を塵芥の如く軽んじ、奮進勇往、以て之を棄つるの公義心なかるべからず。/穂積八束民法典論争。「民法出て、忠孝滅ぶ」:仏の平等博愛主義を批判。
1892 (明治25)◉明治政府修史事業に関わる久米邦武「神道ハ祭天ノ古俗」(卯吉主筆「史海」)で帝大辞職:久米の「古代日本史」はのち宮下太吉にも影響。これ以前、政府は近代国家を目指し政教分離、信教・学問の自由を承認しており明治10年代は比較的自由な研究が行われていた。久米事件と同時期には神道内で伊勢派が出雲派を駆逐。
1893 ◉仏、ラオス保護国化[インドシナ植民地完成]/透谷『内部生命論』/卯吉「居留地制度ト内地雑居」:同胞を世界に散布せよ。加藤「強者の権利の競争」(孫は古川ロッパ
1894 ◉2 月朝鮮・甲午農民戦争(農民+東学党) 6月清と日本、朝鮮出兵→8月日清戦争:福沢、文明宗と野蛮宗の宗教戦争。日本は文明開化の番兵。陸奥宗光:西洋的新文明と東洋的旧文明との衝突。国民の戦争熱狂:明治座日本兵が組み伏せられると観客が支那兵士役の市川緋鯉を乱打。12月蘇峰「大日本膨張論」
1895 1月「太陽」「帝国文学」「文芸倶楽部」創刊/3月 台湾・遼東半島獲得=[華夷秩序の終焉=東アジアが世界システムに併合]◉4月三国干渉:ロ独仏、遼東半島返還を勧告:列強は露骨な領有権要求を控えてきた→英米局外中立のため勧告を受諾し代償金得。→日本で「列強」脅威論、再燃。蘇峰は平民主義から国権論へ。また兆民は対ロ主戦論:アジアの武は平和保証、西欧の武は平和保証を目的とせず不正:秋水の非戦論を批判。内田良平は8月露偵察(-1898)/開化派、閔妃暗殺/諭吉、台湾の抵抗運動に際し「土人は眼中に認めず…兵力を以て容赦なく掃蕩を行い…一切の醜類を殲滅」(小熊55)。田口卯吉「日本人種論」フン族(小熊p174)
1896 第二インターアナキストを排除。11月大西祝社会主義の必要」/英領マラヤ成立。
1897,1月柳浪「非国民」4月団十郎桜痴[活歴]体制(河竹派を排斥)・抱月「社会小説論」→社会小説論争 6月潜「演劇論」/哲次郎と木村鷹太郎「日本主義」/穂積八束「国民教育 愛国心」:祖先教による服従とは敬愛。「約束に由る権力団結においては服従あれとも敬愛なし。人類平等の関係においては博愛あれども服従なし」。家族国家論。/樗牛「我が国体と新版図」異民族統治のためには権力関係をもって臨め/◉10月朝鮮、清への服属がなくなったため王号使用は不適切とし高宗、皇帝に。国号を大韓帝国/潜ら社会問題研究会/貨幣法:金本位制。/英、アフリカのナタールで摩擦を避けるため皮膚ではなく教育程度で入国者を選別[ナタール方式の誕生]→英植民地相チェンバレン、豪で提案→豪移住制限法(1901)
1898 独露仏英ら租借。◉米西戦争(米、西の植民地主義批判、比アギナルドの独立運動を支援、西追放。キューバ独立させ保護国に)11月第二次山県有朋内閣。12月大韓帝国、独立派の李承晩を逮捕。
1899内地雑居開始/北海道旧土人保護法/樗牛「帝国主義と植民」:混血を避けた英国に学べ。/6月大韓国国制 10月第二次ボーア戦争(〜1902):強制収容所戦略と焦土作戦。英、勝利/11月韓清通商条約/米D・ジョーダン:弱小民族を踏みにじれば、アングロサクソンは世界の善のために滅ぼされる」/米、フィリピン統治権獲得→◉米比戦争(-1902/13):米軍将軍はインディアン戦争経験者。トウェインら、併合と米比戦争批判:米西戦争の目的に反する。
1900年1月上田敏「芸術の趣味」/3月治安警察法制定、ストライキ、政治運動の禁止。社研、社会主義協会へ/◉6月義和団の乱:扶清滅洋を標語とする:日露英仏米独伊オーストリアハンガリー帝国連合軍、制圧。7-10月馬蹄銀事件(日本軍の銀横領)を秋水『万朝報』で追求、陸軍少将真鍋斌休職(1902,6月)、山県有朋辞任(10/19)、山県らの恨みを買う/米ベヴァリッジ「神は全人類のうちアメリカ人こそが世界を救済する選民とされた」としフィリピン併合を正当化
1901,2月黒龍会創設 4月秋水「帝国主義」:伊藤派谷干城の非戦論に影響(山県、桂と対立)、伊藤谷は開戦迄非戦を提唱。翌年、秋水、皇室支持を棄却。5月安倍磯雄、潜、秋水、西川光二郎、社会民主党結成、伊藤内閣は翌日禁止。8月樗牛「美的生活を論ず」9月内田良平露西亜亡国論』発禁:日露戦、露革命を予言:日本は革命を支援すべきと主張。/登張「美的生活とニーチェ」/田口卯吉「国語上より観察したる人種の初代」日本アリヤン人種。新村出反論/豪連邦成立:移住制限法
1902◉1月日英同盟(対露)   1903◉英露、チベットを巡り対立:チベット、ロシアに接近→英にとっては露のインド進出へつながる→ 英軍、チベット侵攻:ラサ占領(翌年より清と交渉)/2月キューバグアンタナモ米軍基地の永久租借を承認/5月秋水非戦論。11月幸徳堺、平民社を設立
1904 ◉2月日露戦争:日露対立というよりも英か露かの対立だった:戦費のため外債募集→カスピ海バクー油田を持つロスチャイルド家買わず→ジェイコブズ・シフのクーン・ローブ商会が買う(賠償金を獲得できなかった日本はのち金利を支払い続ける):ユダヤ人シフは露ポグロムへの報復、後レーニントロツキーにも資金援助。欧米で黄禍論。社会主義協会の結社禁止。8月薫「非戦闘員」晶子「すめらみことは戦ひにおほみずからは出でまさねかたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは死ぬるを人のほまれとは大みこころの深ければもとよりいかで思されむ」←大町桂月「乱臣」と指弾。◆第一次日韓協約:高宗の露宛密書発覚、日本政府の推薦者を韓国財務外交顧問に任命/11月幸徳堺「共産党宣言」翻訳、発禁/天心「日本の覚醒」/◉卯吉「破黄禍論」天孫人種(日本人)は白色/英、チベットへ再侵攻/秋水、安部磯雄小日本主義(小国主義、瑞西:スイス、北欧をモデル)
1905,1月露、デモ隊に軍発砲[血の日曜日]→革命運動激化:各地でソヴィエト(労兵協議会)結成。◉9月日露戦争終結:南樺太、関東州租借。日比谷焼討。山県権力増大→大陸帝国論・露復讐戦対策→07帝国国防方針。陸軍は戦争技術による変化や弾薬不足などの反省をせず、肉弾白兵戦を評価する精神主義日露戦争の神話化/英露日関係改善→満州進出を企画していた米が締め出され、日米対立へ。英は次いで独を敵視(植民地戦争的)。また近代史上初の有色人種国家の勝利は辛亥・青年トルコ・ガージャル立憲革命や越の東遊運動、印カルカッタ大会などの民族革命運動を誘発/10月長谷川天渓「表象主義の文学」/11月第二次日韓協約で日本、韓国の外交権を接収。12/21韓国統監府設置/孫文中国革命同盟会結成(東京)、科挙制度廃止
1906 西園寺首相の弾圧緩和。堺ら日本社会党結成:幸徳ら直接行動派(硬派)と田添鉄二ら議会政策派(軟派)に分裂。翌、結社禁止命令/大隈、日鮮同祖論:日本が資本家。朝鮮は労働者/総督府嘱託に内田良平と矢上錦山:日韓合邦の後、一進会を率い、シナ革命に乗じて満州独立を。「鳳の国」構想:大高麗国、扶余族の復興→対ロシア/3月藤村「破壊」◉5月北一輝国体論及び純正社会主義』カウツキー独社民党を範(資本主義を否定する社会民主主義。ベルンシュタインの両立型とは違う):最高機関は天皇(美濃部説)だけでなく、天皇と議会が一体化したもの[美濃部より民主的] :史論としては反天皇制天皇に反乱した無数の者へ言及:楠木(300兵)だけが忠君で尊氏三万の兵は忠君精神なし:河上肇、福田徳三賞賛、当時最も人民主権的な論(坂野)。発禁→滔天らと中国革命同盟会に。11月南満州鉄道(株)設立
1907, 英露協定で中国のチベットへの宗主権承認、中国同席なしにチベットと交渉しないという条項/1月陸羯南「日本」、政教社と合併=「日本及日本人」:五百木良三・三井甲之ら台頭(〜45)◆6月高宗、ハーグ平和会議に密使派遣。背後に英ベッセル・米ハルバート。会議は密使出席を拒絶→第三次日韓協約:官吏任命権を統監が掌握/足尾銅山暴動/加藤弘之「吾国体と基督教」:立憲的族父統治。世界教は民族教を滅ぼすとして基督教批判/9月花袋『蒲団』→自然主義論争(-1910)/12月宮下太吉、森近運平から久米「日本古代史」を教示◉英、米銀取引拒否で恐慌→1913FRB
1908,1‐4月漱石「坑夫」6/22赤旗事件:山口孤剣出獄歓迎会、石川三四郎により硬軟両派合同。旗を振り革命歌を歌いながら街頭へ出た寒村ら検挙→山県