災厄の彼岸

私の過去の2005年の時点でのエントリー「パニック/カタストロフ」
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050825

なお現時点で修正したいところも多々あるが(デマを事実として受け止めていた)、6年後、こんなことになるとは。しかし、6年前に暗澹たる気持ちになったパニックへの恐怖感は、現在、ない。
 
様々な経験と歴史を経て、日本市民は、パニックへの対処法を確実に習得していることを実証した。
東アジア社会における「集団主義」は、欧州型の「個人主義」と比べて、そのデメリットばかりが強調されるきらいがあり、わたしもこれまでことあるごとに批判してきたが、今回の事態をみるにつけ、災厄への応対という点においては、圧倒的な有意性を示したと思う。

いくばくかのデマも流布したし、まだ原発もカタストロフィックな事態を抱えている。また、今後の事態の進展によっては、パニックが起こらないとはいえないかもしれない。しかしすべてのパニックは不安と恐怖から生まれる。デマは情報不足による不安の表現である。不安と恐怖をもたらすのは、心または精神のメカニズムである。
 仏教はこの精神の均衡状態を維持するために、悟りという理論をつくりあげている。悟りとはबोधि ボーディ、菩提のことで、輪廻の迷いから智慧の力によって、解脱していくことだ。このような仏教における心の理論は、カタストロフに対して思想として非常に有効であることをあらためて思う。
 不安こそが最大の敵なのであり、その不安を消去するのは、他者および自分への信頼である。セム一神教は「祈り」をもってこのことを実現するが、仏教は、どのような環境下でも分別(西洋はこれをraison理性と呼んだ)を持ち、観察し、分析していくことをプログラムの根幹に置いた。セム一神教をおとしめる意図はまったくないが、私は仏教の認識理論は、実に正確であったとあらためておもう。
 なお、破壊主義的な精神というものがある。それはニーチェの言葉でいえば、否定的一元論というものであるが、事象や事態の否定的な側面だけにしか興味を持たず、ただひたすら破壊へのフェティシズムだけを妄執する精神のことである。
 本当のカタストロフが発生したとき、そのような破壊主義的な一元論はまったくの無力であるということも、今回あらためて認識した。
 思えば、デマやパニックはそのような破壊主義・否定的一元論がもたらす。否定的一元論は、人類の営為の一切を否定し、あらゆる希望を侮辱する。
 そのような、人類に災厄がふりかかることをどこかで所望するような思考形式と、テクノロジーへの過度の信頼とは、どこかで相関しているように思われる。 
 
 今後、日本経済はともあれ、世界のエネルギー政策は変わらざるをえない。原子力をさらなる高度な管理下において利用することは、世論を説得させることができないという意味で、無理だろう。もっとも、原子力の研究は今後もなされるべきである。
 代替エネルギーの開発や、低エネルギー環境にたえるような社会経済システムの構築など、都市と人類が今後さらなる改善をすすめていく。