ブランショのマラルメ

 バタイユブランショ論が、むかしの雑誌に載っていた。たしか現代詩手帳のブランショ特集号だ。ものすごいと思ったことを覚えている。なんども読んだから、先にいったようなことはないのだが、私の感想からすれば、小林秀雄をすら超えている。文章力というのか、なんといえばいいのか、まったくあいまいなところはないし、かといってすごく明確なことが語られているわけでもなかった気がする。ブランショは批評家としてよりも小説家として認知される必要があるとか、そういうことなのだが、たぶん、「文体」がすごいのだ。文のシークエンス、構成法。たしかあれは晩年のテキストだ。円熟しきった偉大な思想家の妙技というやつか。

 それで、いまレジュメを書こうと思っているのは、ブランショマラルメ論だ。マラルメは難解だとよく言われる。たしかにそうだ。詩の翻訳なんてそもそも不可能なのは前提であるとしても、それでもボードレールランボーはまだ翻訳でもどうにか伝わってくる。マラルメの翻訳は、そうではない。なにがすごいのか、まったくつかめない。原文で読もうとした。翻訳とつき合わせて。でも歯がたたない。それでも、「さいころ」についてはさすがにあれの翻訳は笑うことができるまではフランス語はやった。いまでいえば、ヴィジュアルポエトリーを日本語の文で表わそうとしているようなものだ。jamaisが、いかで、だった気がする。
 とまれ、ブランショマラルメの沈黙』より。

 「なにひとつ可視のものにいたることのない、見えるということが入りこみがたい純粋な不在のなかでの作業」「そのような不在において、詩人は絶対を捕らえたのであり、この絶対を、偶然から引き出した奇跡的な結合によって、いくつかの語で表現したいと願ったのである」
 
「私は、垣間見た狂気に近い瞬間から、均衡を生み出す法悦へと移行しつつある。私は断固として、再び、絶対から下降しつつある」マラルメ1868,5/3.

マラルメはある恐るべき不安のときに、思考が裸形化するのを認めた最初の芸術家というわけではない」
 プロティノス:思考は対象にヴェールを掛け、それが姿を消す内奥に自身を集中させながら、なにも見ることなく、見ている。
「だがマラルメは、語を意識し熟視することから、あの至上にして完全な法悦を引き出し、純粋な音綴によって霊的な人間が抱擁しうるもっとも豊かで貪欲な、もっともおおくの幸福と絶望をはらんだ夜を、自身のために作り上げた唯一の人物である」「言葉による陶酔や幻惑によってではなく、語の方法的な配置や、動きやリズムについての独特な知性や、ほとんどなにひとつ表明することなしに一切を想像する力を備えた純粋な知的操作によって、あの奥深い夜の集合体を目覚めさせた勇一の人物である」
 あの奥深い夜の帳、、、、

「範例的な意味ではなく、不在や、それが知られえないだろうという事実においてのみ、認識に委ねられるよぷな極めて深いある現実に注がれるまなざし」
 
 開かれていたマラルメ。だが、だとすると、なぜあのように深く口をつぐんだという印象をひとに与えるのか?

マラルメの苦痛。不毛の夜が彼を包む。
「拷問のような苦しみをもたらす曖昧な要請、自分の作品および作品のための手段への疑惑、漠とした止むにやまれぬ探求、それらが、彼に、なんの喜びもない混じりけのない苦悩を課する」 

1869年の沈黙。「すでに繰り返し考え究めていた重要な仕事に閉じこもるために」

 (…)絶望はすがたを消す。

  確信
  個人的な彼岸
  普遍的象徴
  全体ではなく断片によって示す
  準備考察
  長いまなざしの忍耐
  社会に知られた自我から離れたものとして
 「事物を書くのではなく、事物が生み出す効果を書くこと」マラルメ1864,10月

マラルメの詩は難解か』 
 詩の全体性
 詩に細部はない
 詩的意味作用は、唯一的なもののカテゴリーに属している
 (…)中断


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「不可避の、総合的で幼児的な野蛮さ。事物を大きく見たいという欲求。とりわけその総体の効果において眺めたいという欲求から出てくる野蛮さ」ボードレール
  メキシコ、エジプト、ニネヴェの完全な野蛮さ