イデオロギー

昨日の記事で、言語/記号主義が、「実感主義」と抵触するという展開になって、そこから「実感主義」の解剖を始めたのだが、なかなか問題対象としての構成がしづらく、話しが支離滅裂(これはいつものことだが)になるわヤバイ話しになるわで、公表を控えた(これは放言を旨とする私としては異例)。というか、ヤバイというのは、話しが天皇制や歴史修正主義の話しになり、それで、いまの東アジア情勢に移ったはいいが、まあさすがにリスクを背負い込むほどにはまとまってないし洗練もされていないというわけで。
 それで問題は、イデオロギーだったわけだ。
クリフォード・ギアツ「文化体系としてのイデオロギー」in『文化の解釈学II』岩波所収、を読む。
これもノート化は大変。同書所収「意味の政治」もいずれ読む。
 で、時間を縫って、テリー・イーグルトン「イデオロギーとは何か」購入。イデオロギーとは何か (平凡社ライブラリー)
さすがにこれ読まないと。でいま読んでるがこれもノート化するにはあまりにことが膨大。
 でもま「イデオロギー」が侮蔑語か分析概念かについては、その語がなんであれ侮蔑行為の際に使用されればどんなに分析的な語でも侮蔑語にはなる。とはいえこれは原則論。両者にいわれるまでもなく、「イデオロギー」はかなり「特殊な」というか不思議な両義的な役割を果たしてきたのは確かである。そうしてイデオロギーという語は消えた(イーグルトンによる)し、ニッポンでも聞かない。変わって「言説」だったりするわけだが(イーグルトンによる。ニッポンにおいても同様。)、まあその意味はまったく違うし、むしろ関係ない。ていうか「イデオロギー闘争」なんて語、雑誌新聞のマスメディア(といってもほとんど読んでないが)に、少なくとも、タイトルにそれが使用されることなんてないだろう。そうか、いつのまにか死語だったのか。まあニッポンではギアツ/イーグルトンのいうような状況に加えて、外来語/カタカナ語への態度というファクターも入りはするが。
 しかしま考えてみれば「差別語狩り」の時も、語を消去するだけで、その差別のイデオロギーの内実にはほとんど食い込まなかったな(これももう10年以上の前の話しだな)。まあ、喩が、意味の政治にあって重宝されるのは当然なんだが、そのことのレベルがあるということを一般社会的に認知できたことはいま考えれば進歩wだったのかもしれない。
 まイーグルトン読んでからにするか。ひさびさにナマな熱気。