ノスタルジアあるいは老境について

本を読み続けたせいで、眼精痛がひどくなり、一時はなにもできないほどであった。が、復活した。
日曜には、小学校の時の恩師O先生に、nさんと会いに行った。23年振りで、これはまた言葉にならないのである。「再会」は再会だが、23年のブランクと出会う、その隔たり、遠さと出会うこと…「旧交を暖める」とは、友人関係における事態を指すのか…
 「小学校」である。「中学」でも「高校」でも「大学」でも、ない。文字通り、子供であった時。幼少期。先日、高校の同級生の結婚式にいっても思ったのだが、われわれは年を取ったw こうした認識は「感慨」ともいわれるのだろう。だが、ノスタルジアでは必ずしもない。ノスタルジアは、本当に失われたあとで、つまりたとえばさらに年を取り、同級生もどんどんいなくなり、先輩もいなくなり、周りには自分の子供や孫の世代がいるような、つまり「老境」あるいは「終わり」つつあるときに、成立する。あるいは、「老境」とは、決して取り戻せないイマージュ、なくなった町並みとか、建物とか、記憶の切片とかに対する時に、成立するある精神の状態とでもいうのか。
 「老境」についてはジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが「哲学とはなにか」の冒頭において、触れている。「老年が、永遠の若さをでなく、ある至高の自由、ある純粋な必然性を与えてくれるようなケースがある-この必然性においては、ひとは生と死のはざまである恩恵の期間を享受し、機械の部品がすべて組み立てられて、すべての年齢を貫く一本の矢/線が未来へと投じられる-ターナーティツィアーノ、モネのケースである。」
 この文の注には、L'oeuver ultime,de Cezanne a Dubuffet,Fondation Maeght,preface de Jean-Louis Prat参照とある。
 ドゥルーズガタリは、続いて、シャトーブリアン「ランセ伝」に触れる。その箇所では、Barberis,Chateaubriand,Ed.Larousse:「不可能な価値としての老年について書かれた書物『ランセ伝』は、能力=権力をそなえた老年に抗して書かれた本である。すなわちエクリチュールの能力のみがそこで肯定される普遍的な荒廃に関する本である」との注釈がある。
 続いて、オランダのドキュメンタリー映画監督ヨリス・イヴェンスについて。
http://www.city.yamagata.yamagata.jp/yidff/catalog/99/jp/07/index2.html
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN8/tashiro-spain.html
 そして、カント(1724-1804)の「判断力批判」。カント66歳。
 …「そこでは精神の諸能力はすべて、それぞれの限界を飛び越えてしまう」
 …「解き放たれて猛り狂う」、「老境」。

…ここには、当然、大野一雄も入るだろう。
 ゲーテ(1749-1832)もまた。60歳であの「親和力」(1809)を書いて、以後、「色彩論」、「詩と真実」、70歳で「西東詩集」(1819)、「イタリア紀行」、80歳で「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(1829)、そして死の前年の1831年ファウスト第二部」。
 デリダもまた「猛り狂う老境」のひとだった。
 そして、ドゥルーズ。60歳で「シネマII」「フーコー」、63歳で「襞」、66歳でこの「哲学とはなにか」67歳で「消尽したもの」。