パース 

 作業仮説としての命題を設定して、そこから探索をはじめる仕方。これは演繹法deduction。
 でも、私の場合、その初発の命題は、単一ではない。いくつも、小さなテーマがある。その小テーマをある程度は選択するとしても、そこは決定しないようにしておく。開放させておく。となると、これはほとんど、テーマをデータdataとして扱っている。dataとは「与えられたもの」つまり「与件」と訳されているもの。で、これを扱う仕方は帰納induction。
 でまあ、パースのabductionの話しへ。推定。あるいは、推論とはどのような過程を経るのか。
これについては、あのすさまじく楽しい論文「人間記号論の試み」をまた読まないとならない。
 チャールズ・サンダース・パース「人間記号論の試み」は、
  1.デカルト主義批判
  2.すべての精神作用は推論である
  3.すべての思考は記号とみなされる
  4.人間を記号とみますことが可能である

の4章で構成されている。
この論文は元来、「4つの能力の否定から生じる帰結」(1868)と題されていたもの。

人間とは思考する生き物であり、言語なしに生きることはできない。というか、言語が、人間なのだ。
言語論的転回とか難しいこといわずとも、これは本当に納得のいくところである。
それにしても、ニッポンでは、たったこのことすら認識したくない輩の多いこと。
「現実」にしろ「実感」にしろ「社会」にしろ「個人」にしろ、それらはすべて構成されている。小林秀雄の花の話しにせよ、あれは認識論の必要を唱えていたのだ。たしかに、自分が受けた教育を振り返ってみても、そうした認識論は、ほとんど教師の口から聞いたことがなかった。小学校中学校高校において、いまそれが改善されているとは到底思えない。大学において、はじめてそうした認識論に触れることになったとしても、それはすでに「義務」wではないわけで、どころか、大学にあっても、まじめにそのことをやってるひとは少数派だろうし。
 丸山真男のいう「実感主義」の跋扈するジャパン。そうして、ネオ帝国主義とでもいうべきこの現代の世界においても、そうした野蛮な実感主義が、主流である。これはむろんニッポンの話しだけではない。そうして、この実感主義とは、たんにイデオロギー主義ともセクト主義ともなんといってもいいが、つまりはある信念/信仰の争いなわけだ。
 私はどのイデオロギーに加担するか?傾向としてはロマン主義ではあるだろう。しかしそのロマン主義の概念がなんであるか、私は知らない。主観主義?それはたんなる侮蔑語だ。たとえば、クライストの「拾い子」のようなテクストがある。たいへんすばらしい天才的なテクストである。史上最高の小説(最近こればっかだな)である「親和力」を書いたゲーテも、クライストについては理解を示さなかった。過剰だとのひとこと。そうしたところはまったくのゲーテの限界であるし、そのようなゲーテはまったくつまらない。クライストにおいて、あのテクストにおいては、認識界あるいは言語世界がひび割れている。世界は、語あるいはimageの切片となって、単一の安定した基盤はない。これを「病的」とかいうのだろう。あるいはニーチェでもいい。とまれ、クライストなりニーチェなりの世界観?言語世界を一個の立場として、すなわち一個のイデオロギーとしてあえて捉えるのなら、私はまったくそこに加担する。
 すでにこの時点で、上記の実感主義とは衝突するだろう。「現実に根ざせ!」などということがもはや不可能であるということ。そのことを、事実認識として、踏まえるということ。