マネ/フーコー
D・ドゥフェールの論考「言葉とイマージュ」(「ミシェル・フーコーの世紀」筑摩書房、所収)は、フーコーの絵画論について報告している。以下、メモ。
○見ることと言うことの分節化の問題
○マグリット:ルサンブランス類似とシミリチュード相似との区別について。
◎マグリット「(パースペクティブ)マネのバルコニー」(1929/1963)
○「矛盾とは論理学上のカテゴリーであって、存在のカテゴリーではない」
:矛盾は命題にしか関わらない。
○画はエノンセ言表ではないから、真偽には関わらない。
○マグリット→類似を前提にした造形的表象と、類似を排除する言語的指示referenceとの区別(境界線)のうえでの遊び。
○カンディンスキー:黄色い城や青い騎士のような表象的要素を、線・斑点などの純粋にグラフィック図像的な状態に還元した。
◎「これはパイプではない」(1963)
○カリグラム:視覚詩。
→指示designerと描写dessinerとが重なりあう。
◎ベラスケス「侍女たち」
鏡の反映を、その実在すれすれで検討する。
○鏡は、絵のなかのシーンを、包み込んでいる。cf.包摂
鏡は、画家/モデル/鑑賞者の見る機能すべてを、絵の表象機能として映し出している。
ヴェラスケスの鏡は、鑑賞者が見ているものを二重化しているわけではない。
→絵画を構成する物でなく、絵画の機能を映している。
○鏡=記号/反映:映し出した物を示すという自然的記号そのもの。
記号と表象との一致。(王=至高者=鏡:観念)
○形象と意味
意味は音声的実質のシーケンスのなかで展開する。→時間性
意味を読みとる時間のなかで、形は消えていってしまう。
「というのもエクリチュールは空間であり時間であるのだから」!
○言表と対象指示
「形象とテクストとのあいだに、一連の交叉全体、あるいは相互にしかけあう攻撃、敵という的をめがけて射られる矢、掘削と破壊の企て、突き出される槍と傷口、ひとつの戦い、を認めなくてはならない」
フーコーの言表理論:言表と言表の位置の偏差のお複合的な形式化
言表の事件性についての分析=言表の物質性の分析
プラグマティック語用論。
…
◎マネ「マクシミリアン皇帝の処刑」:ゴヤ「(マドリッド-1808)5月3日」の反復/変奏
→表現性の排除→言語としての絵画の否定
フーコー:この絵の空間構成について。
→マネは距離を表象する代わりに、距離の記号を描いた。
マグリット/ウォーホール/フロマンジェ:イマージュ
シュポール支持体/ふたつの「観客」の交換可能性
◎マネ「オランピア」:ティチアーノ「ウルビノのヴィーナス」の反復/変奏
両者間における光の構造的差異
a.ティチアーノの光:
伝統にしたがい左から差し込んでいる。
光は鑑賞者とは無関係。
b.マネ:
光は、真正面すなわち鑑賞者の位置している点から差し込んでいる。
→鑑賞者=裸体(覗き)の共犯者
見る行為は、18c末まで、観念性の要素としてあらゆるまなざしに先行して存在する光のなかに吸収されていた。
18c末、光は目、かぼそい燈の側に移った。(「臨床医学の誕生」)
◎イタリア15c:
黄金の背景を放棄。
ふたつの光源を導入:画面を照らす光/画そのもののなかに表象された光
→斜影、立体感、キアロスクーロ明暗法の効果
マネはこのふたつの光源を重ね合わせた。
→光が記号となり、表象であることをやめている。
→4世紀のあいだ、西欧絵画において表象であったものが、ふたたび記号となった。
ex. 「草上の昼食」画面中央の画家のポーズ:親指と人さし指は、この絵のなかではまだ描かれている(進行中)光のニ方向を指している。
→マネの人物たち:薄暗い背景から浮かび出て、絵の前面にいる。影のない風景のなかで、鑑賞者のいる満ちあふれた光の世界の方へと投げ出されている。
「まるで死に投げ出されているかのように」
投げ出されてあるということ。むきだしの。
◎マネ「フォリー・ベルジュール劇場のバー」
鏡が絵の奥を閉ざしている。
→奥行きがない。伝統的な標識もなく、反映を鑑賞者へと送り返している。
→鑑賞者を不安定にする働きをしている。
鏡が映し出しているバーの客の位置を確定するものがない。
モデル-画家-鑑賞者における関係の幾何学もない。「侍女たち」の裏返し。
◎バタイユとフーコーの差異
バタイユ:至高性→フーコー:死の記号signe
フーコー:マネにおいて意味作用の過剰(至高性)はなかった。マネ=絵それ自体。絵の相似similitudeではない。
○signifiant=能記=記号表現の、物としての裸形。
裸形=画面の二次元=光の不在=三次元的錯覚から醒めて戸惑う鑑賞者を巻き込む作用
描いているのは誰か?絵画である。マネ
書いているのは誰か?言葉である。マラルメ
「芸術は、秘密に向かうように世界に向かって開いているのではなく、形態の無限の変換と二分化へと開かれている」
フーコーの否定美学。