殺戮、血

戦争の現場とは、殺戮である。
そこで被害にあうのは、女、子供、老人、「弱者」としての市井の人、「民衆」であり、「大衆」である。
 被害者を巡る言説もまた考えなくてはならない。
同時多発テロの被害者を追悼するとき、なぜ飛行機の乗客が無視されるのか、とゴダール
問うていたが、たしかにそれは気づかなかった。
 なぜなのか?それは分からない。
ツインタワーで働いていた人々は高額所得者であるから?乗客には、高額所得者ではない人々も含まれていたからか?
 
テレビで放映された留守電が耳に残っている。泣きながら、女性が、夫への伝言として、「たぶん、もう無理だと思う、たぶん、帰れない」。

そうして、アフガンへの空爆誤爆誤爆…というか、空爆する限り、テロリストではないものも被害にあうのは当然だ。しかし、もはやテロリストと非テロリストとを区別する余裕はアメリカにはなかった。それは「仕方のない」こと、とされる。

 テロリストをかくまう国家とは、戦うわけだから、その国家の構成員である「国民」を不可避的に殺害=攻撃することは、仕方ない、と。
 
 そうしてまた、兵士も死にゆく。
ところで、兵士となることへの欲望とは?
血への欲望?
殺人。
死への欲望。
スポーツや、あるいはチェスでもいい、表象代理戦争。
舞踊の発生史においても、戦争の代理としての機能を果たす事例もある。
ギリシア悲劇
sくんとセネカの悲劇について。
悲劇と戦争。…