リプレゼンテーション。表象批判。

 代表制representationの問題。代表=表象の問題。まったく、近代における政治的思考システムといわゆる表象文化(とりわけそれは視覚芸術に「代表」される)における「思考」システムとは、交差、いや、連動している。
 しかしこのリプレゼンテーション批判は、わが国wにおいては、「インテリ」の「教養」であるが、これはどこに由来するのか?
 現在、一般的に?(というか思想界における「一般」)流通している表象批判。これはどう考えても、蓮実重彦柄谷行人浅田彰ら(を「代表」とする)の「批評」によって、周知のものとなった。そうしてかれらが輸入してきた思想システムが、ドゥルーズフーコーデリダに「代表」される潮流である。細かいデティル、たとえば、ドゥルーズを翻訳しつつもその映画論を認めないというか嫌っている蓮実氏、またドゥルーズデリダなんて知りませんと公言してきた柄谷氏(といってもおそらくはド・マンを精読することでデリダらの思考形式を導入してきた。といってもあんまり氏の著作は読んでないので、不明)らの「差異」は、おいておくとして、なんにしても、件の三人を筆頭とする第二次世界大戦以後のフランス哲学の仕事による。
 ドゥルーズの場合は、「差異と反復」。裏に93年一月と書いてある。もう10年経った。それにしてもなんという本だろう。別に理解できない自分が恥ずかしいとか、理解してるよ!とかうそぶくことでもなく、これまで幾度となく開き、いまあらためて開いてみても、その論の膨大さ、壮大さに、あらためて驚嘆する。先日、「襞」第一部を読み返したわけだが、「襞」はあくまで「差異と反復」のヴァリエーションであった。いままでノート化を試みたが、気が遠くなって、読むだけにしておいたこの本と、やっと対面できるような気がする。
 あ、表象批判の話し。表象批判は、これと、フーコー「言葉と物」、デリダの「声と現象」「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」などの初期テキスト群に、よって切り開かれた。

 で、本題の表象批判ということで、こうした「常識」(しかしこれは「教養」ではあれ「常識」となっていない、ってアタリマエか)・前提的なデータ確認を経て、確認したかったことは、議会制民主主義批判のことである。