デモクラシー論の前提:リバタリアニズム

 でまあ、大いなるモード転換で、頭がヒートwしてしまって、
 森村進編著「リバタリアニズム読本」を、ビジネス本に混じって購入し、ぱらぱら斜読みして、「そうか、私はリバタリアンだったのか(もしれない)」と帯びに一瞬、折伏されそうになったが、まあアイン・ランドの思想には、ついていけないし、また、レッセ・フェールで、資本主義野放しで、いいわけないだろ!とも思うので、リバタリアンを呼称することはなさそうではあるが(というかこの本の限りでも統一的な思想立場ととして「リバタリアニズム」があるわけではない)、しかし国家の機能と、個人の自由をどのように考えるべきか、むちゃくちゃ大変でもあり、しかし同時に、「自由」なる観念=イデアには、幼少期よりずっと固執してきたもので、自由とはなにか、やはり再考しなくちゃならないのであった。
 ハイエクによれば、自制的秩序を重視する反合理主義的なスコットランド啓蒙(アダム・スミス)と、合理主義的なフランス啓蒙(ケネー、テュルゴらフィジオクラット重農主義も含む)とを対比し、フランス啓蒙を偽の個人主義社会主義に発展するから、「レッセ・フェール」はダメ!フランスはダメ!とのこと。じゃ「レット・イット・ビー」かな。いやま。