新聞

 あー、ずれるずれる。議会制民主主義なんだ。それでデリダ「他の岬」は、1990年「リベール」という新聞に発表された記事。この「リベール」という新聞は、ドイツ「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」、イタリア「インディチェ」、フランス「ル・モンド」、スペイン「エル・パイス」に同時に折り込まれ、四か国語で発表されたという。こういう話しを聞くと、本気で、うらやましい、というか嫉妬みたいな感情すら、生まれる。いいなー。そんなんだったら、俺も新聞、買うよ。日本の新聞は、論説が少な過ぎて、どうにも読む気になれない。ただの「客観的な情報」で十分ということだろうが、どうよ。で、「論説/社会時評」は雑誌で、つうことだろうが、どうよ。私はドイツ、フランスの新聞しか知らないが、あの厚みは、魅力的だ。日本の新聞は、薄過ぎる。つまり、情報量、絶対的に、少ない。だから、買う気がしない。それにあの新聞勧誘のあり方。そんな新規契約を営業成績基準・目標とするのって、違うだろう。あのような押し売り的営業は、労働者の責任ではもちろんなくて、労働条件というのか、そうしたものを「仕事」とみなす思考形式の、発想の基盤が、そも間違っている。
 新聞とは、市民的公共性を担って来たし、またこれからも担う重要なメディア=媒体である。どれほどインターネット環境が整ったところで、新聞の簡便さは有効なんだから、なんとかならないものか。大体、論壇雑誌も、いいのだが、いくつもあるし、それらを全て通読する経済的・時間的余裕はない。これが、ドイツ・フランスの新聞だと、新聞の内容に、論説が相当盛り込まれているわけで、消費者にとっても、やはり合理的である。
 日本の政治的無関心知的水準のひどさについてまあ飽きることなく、いろんな本も出てるようだが、新聞の量的な、そしてその結果としての質的な水準こそが、じつは、テレビよりも、重要な原因ではないだろうか。
 そうして、一国の知的水準を示す重要な指標である新聞がそんなんだから、テレビもそれに応じて、論説・議論を封鎖する傾向が強いわけだ。視聴率つまり広告スポンサーに完全に牛耳られておいて、「客観的な」報道が使命です、なんて、ショッキングな事件が起きるたびに、繰り返される「良心」の充足=自己正当化。あほくさい。自律せよw!
 むろんいま私は論点を提示したいがために、一様に語っている。つまり、別に論説・議論は、十分、テレビでも特番なりなんなりで放映されているという認識もあるわけだが、しかしそれは一般的な傾向・勢力としては、やはり例外的ではないか?
 市民的公共性に利する番組があることくらい前提だ。しかしそれはあくまで、例外的だ。
しかし、まあ日本の新聞界が今後改善されることがあったとしても、たとえば左派の日刊新聞(しかし「左派」の新聞って、なに?朝日って、左派?)に、デリダなりなんなりの文章が、掲載されること、ま、ありえないだろう。…中学受験のとき、天声人語だけでも読めとかっていわれて、幼いニュース好きだった小学生の私はスクラップノートとか作ってたが、子供だから、ふーん、勉強、とかって読んでいたが、いまでもなんとなくその内容覚えているし、また、いまでも朝日新聞見たりするとき、チラ見するが、あれ、なくなっていいと思うw。 じじくせえだけじゃ。全然、アクチュアルじゃない。あんなんとか、あと、歌とかw、一面には必要ない。
 今後、よっぽど「ル・モンド」に匹敵する内容にならない限り、私は新聞を、すくなくとも定期的に、購入することは、ありえない。さようならw