2.bの問題構成、関心について

2-1 唯物論的な分析

個別の現実政治的な事象について、実践的・批判的に考えて行くことが、「唯物論」ではないかと私は思う。唯物論は、「観念論」を、逆転させる、というのはそういう意味ではないでしょうか?
 唯物論/観念論の対立は、哲学史的には、唯名論/実体論のヴァリエーションであって、観念を分析するとき、観念間関係のみにコンテキストを限定せずに、その観念がいかに機能するのか、その具体的・実践的・リアライゼーションのレベルで考えていくということではないでしょうか?
 それで、bの問題構成の立場は、ある思想/イデオロギーがいかに発生したのか、その物質的基盤はいかなるものか?というものですよね?
 リバタリアニズムの物質的基盤は、「アメリカ資本主義」以外のなにものでもないでしょう。しかし経済的なレベルはまた政治的なレベルへと変換される。つまり、正当化する。あるいは「自然化」する。あるいは「普遍化」する。
 これについては、私は、既得権益の保持が、その目的であり、その正当化の結果として、リバタリアニズムが構想されてきた、と書いたつもりです。そう、それはまさに、「ただたんに」、それだけの話しではないかと。とりあえずは。
 それに独自の(アメリカ「土着」といっていいのかもしれない)宗教的思考とがむすびついて、結果、独特の原理主義である「アメリカニズム」が形成されている。しかしこれはもう専門家に委ねるべき領域です。

で、思想内容よりもその基盤の分析が重要だってのはもちろん分かる。でもそうはいっても、政策は、ズバリその「内容」によって、決定されていくのではないか?

もちろん、リバタリアニズムアメリカン・クリスチャニズム、国際政治的には「帝国主義」をも含めた総体(イデオロギー複合体)としての「アメリカニズム」 の唯物論的分析、というとき、その「実体」・経済社会的基盤というファクターは、重要である。
 しかし私はその「アメリカニズム」と、それに連動する日本国家、そしてその日本国に、「国民」ないし「市民」として生活する私、という系列化をすることなしに、彼岸の国「アメリカ」を問題化しようとは思わない。もっというと、そうした実践的な、つまり、私という自分の私的領域により直接に関与してくるものとしての問題対象を、私にとってリアルなコンテクストを捨象して、論じたいとは思わない。
 ちなみに私は「私的領域」を拡大させ、「公的領域」を縮小させよ、などとは考えていない。