続・コラボレーションについて

「ザンビネッラ」上演のお知らせ http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050810

さて、現在進行形のコラボレーション。
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050618#p7のエントリーで書いたように、コラボレーションは、いかにもむずかしい。
結果がどうなるか、それは本番当日まで分からない。

いろいろ補足しなくてはならない。
昨年の冬にBankART1929馬車道ホールで上演したイマージュオペラ>>ロマンティック<<「死の病い、居留地にて」に続くコラボレーション第二弾とあるけれど、前回は、ピエールさんは基本的に出演者(客演者)として参加してもらった。笛田さんとはいろいろ折衝もあり、その意味では、共同作業といえるものだったかもしれないが、ピエールさんとそのような折衝になることはなく、その意味では、共同作業とはいえないものだった。

つまり、ピエールさんとのコラボレーション=共同作業は、今回が初めてなのであり、「第二弾」ではない。ピエールさんもコラボレーションははじめてとのこと。
 それはつまり、いま現在、作業していることが、コラボレーションらしい作業であるということを、双方ともあらためて認識しているのである。

 今回のテキスト素材は、ピエールさんよりの発案で、オノレ・ド・バルザックの「サラジーヌ」である。
 バルザックの「サラジーヌ」といえば、ロラン・バルトの「S/Z」である。今回、チラシの文に、「SとZ」とあるのは、むろんそのコンテクストを指示している。
 さて、ところが、私はその本を、実家にあるにもかかわらず、こちらへ送らなかった。これは無意識による失念ではない。むしろ、「あえて」読むまいとしたふしがある。
 それは、以前よりもこのテクストの存在は知っていたし、いくども紐解こうとはしたのだが、ついに読みたいと思えるようにはならなかった。つまり、私にとって、魅惑的な本ではないのである。そうして、今年のはじめ正月帰りしたとき、再度紐解いても、とうてい読む気にはなれなかった。
 バルトが嫌いなのではない。「サド・フーリエロヨラ」などは好きな本のひとつであるし、いくつかのエッセ・クリティック(批評的エッセイ)にも、蒙を啓かれまた魅惑されもしたものだった。
 ただ、どうにも「モードの体系」や「S/Z」は、読めない。
 

 能力的にも読めず、また興味的にも読めないともなれば、もうあきらめるしかない。それに、「サラジーヌ」は、バルザックの小説であって、バルトのテキストではないのだから。バルトの解釈はひとつの事例であるのであって、たしかにバルザックのマイナーなテクストを、再発見したという意味では、多大な貢献を果たしたといえるものだが、その解釈あるいは分析の仕方のみが、参照されるべき、とはならない。
 「サラジーヌ」に限らないが、テキストは、さまざまに解釈されていいはずだ。というか、こんなの、いわずもがな。

 さて、イマージュオペラは、これまで言語素材としてはハイナー・ミュラー「トラクター」や、スティーブンソン「マーカイム」、マルグリット・デュラス「愛」、パゾリーニギニア」などを基礎テキストとして選んできた。そこから、派生するほかのテクスト(とりあえずこれはcon-textコンテクストといえるだろう。つまりテクストは単独で存在せず、他の多くのテクストとの関係を、その内的な要素として持ちながら、構成されていく。)へと飛んだり、また戻ったりの、彷徨を行ってきた。
 

 それで、いまいいたいのは、今回のバルザックは、かなり私としても、冒険的であるということである。これまで私は基本的にモダニズム以降のテキストを扱ってきた。ただ、スティーブンソンはたしかに微妙である。だがイマージュオペラ>>モノブロック<<「マーカイム」のときは、ソロでもあったし、まあとくにテクスト選択上の問題は発生しなかった。つまりテキストへの興味は、持続した。
 

 バルザックについて私はいまだ関係をうまくとれないままである。バルザックのテクストがすべてそうだということはないが、「サラジーヌ」は、とりあえずは、古典主義的ともいえそうなテキストである。
 そうして、このテキストの重要な要素である「古典主義」あるいは18世紀・19世紀の文化史的背景(フーコーの天才的なエピステモロジー「言葉と物」もまったく同一射程に入る。)について、必要な作業は膨大にある。この間、クールベなり世界史なりを漁っていたのは、その作業に含まれるものだ。
 つまり、いまは、こうした問題圏について、なにごとかを発信するような状態にはないということだ。これは、理想的な作業を、想定して、そういうのであるが。
 別に適当に遊べばいいじゃないかという話もある。しかし、そのへん、私以外には了解してもらえないだろうが、私は、他人よりどれほどいい加減に見えようとも、私としては、実は、厳密であるw むろん、私なりに。
 
 さて、今回、はじまりは外発的であった、ということ。これは「言い訳」ととられてもいいが(つまり好き勝手いうやつをコントロールすることはできないので)、そうではなく、状況あるいは「事情」の確認である。

さて、「ザンビネッラ」に戻る。

以前の記事にも書いたように「サラジーヌ」は全集に入っていなかった。代わりにというか、いくつかの編纂本や、バルトの「S/Z」には、収められている。
 それで、とりあえず入手しようとしていろいろ探すなか、結局はフランス図書で、どうせ読めもしないのだが、ペーパーバックの原書を購入した。そこではじめて知ったのが、ミシェル・セールの「ヘルマフロディット」というテキストであった。
 これは!と思い、調べると、なんと法政大学出版局より邦訳(題は「両性具有」)が出ていた。
 セールのこの論文については以前も触れたが、大変すばらしい論である。そこでは、カントの空間方位論などと関連づけられて、さまざまな主題が、高密度に、論じられている。

 ピエールさんは、バルトの本もセールの本も、すでに読まれていて、この点では、共通の情報=認識が得られたので、幸いであった。

 今回は、前回、ギャラも払うことができなかった返礼として、全面的にピエールさんに主導性をもってもらっている。
 しかしこれがまた事をややこしくもした。これだと、ピエールさんの作品ではあるだろうが、コラボレーションには、ならないのである。

 こうしたことは、コラボレーションの形式問題ともいえるだろう。あるいは、「対話的な作業」の問題とか。

 どのような形式が望ましいのか?
 「コラボレーション」とはなにか?

いま、「対話的」という語を使った。そして、コラボレーションとは、基本的には、対話によって進行されるものである。それにしても、理想的な「対話」とはどのような形態をとるのだろう?
 この件について上記トラックバックしたエントリーにおいても、触れた。

その後、大きな山あるいは壁を乗り越え、といってもその山は、別の人間との「対話」であったのだが、いま現在、なんとか、進行している。

 
 それで、「対話」に戻ると、舞台での、とりあえずは、ダンスのコラボレーションとなると、そこでいう「対話」とは、大きくは、アイデアの共同検討である。
 
 むろん事はアイデアにとどまることで終わるはずもなく、その展開、シーン構成、全体構造、照明、基本色彩、コンセプト、動き、振付の検討、空間配置、セノグラフィーの処理、経済的その他の条件の検討、その他もろもろの、舞台創作にまつわる例の問題群というカオスに巻き込まれていく。
 

 ちなみにこのカオスについて、セールは「雲」という表現を使っている。いまだ読めないままの本ルクレティウスなどに由来する発想なのだろうが、たしかに稽古場の空気は、本番が近づくにつれ、熱気を帯び、雲のように、時間と経験とが、滞留していく。そうした雲に囲まれながら、やがて本番を向かえるわけだ。
 

 そうして、幼少のころより集団作業は苦手だと自分では思い込んでいた自分が、いつのまにか、こうした「雲」を好むようになっている。
 クサイ話ではある。しかしこれは共同作業=コラボレーションの本質にまつわる面である。
 
 あらためて「対話」という行為のはらむ、さまざまな面や線、出来事などについて、認識し、体験している。という、いまの日々。

 

 さて「ザンビネッラ」にまた戻ると、これまでも、上演にあたって共同作業者よりの「介入」はむろんあり、「サポート」もありあるいは「抵抗」もあり、ときに「説得」し、ときに「暴走」することで突破したり、上演にむけての組織化(この言葉が正確かどうかは微妙であるが)のうえで、さまざまな出来事が起こっていくなか、主導性は基本的に「こちら側」にあった。(→ここでいう主導性の主体が、複数的であることを示唆している。)
 
 また、私が他の上演活動に客演したときは、主導性はむろん、私ではない、その活動の主体=演出家=振付家にあった。
 
 それで、この主導性が今回は、とりあえず形式的には半々なのである。
 
 これは考えてみれば、はじめてである。
 
 しかし上記括弧のなかに書いた、主導性の複数的なあり方ということでいえば、これは初めてではないということになる。
 
 
 こうした観点は、主導性、あるいはより一般的な言葉を使えば、主体性とはなにか、とか、主導性を分かち合うこと、主導性の分有、…主体性を分かち合うということ、といった系に連なっていきもするのだろうが、それはまた別の機会に考えよう。

 
 
 とりあえず、いまだ様式を決定していないあるいは、昇華していないイマージュオペラにとって、すべての作業は「実験的」である。
 
 そして、今回、いままでとまた異なる「雲」が漂うなか進行している作業が、どんな結果を産出するかは、8/10(水)の7時半より始まる小一時間で、見ることができる。
 
 おひまございましたら、ぜひこの時間に御立ち会いくださいくださいますよう、お願い申し上げます。

 (と、メモ半分ご挨拶半分の両性具有。なんていっちゃだめだ。)