「サブカルチャー」、芸術の一般史より

で、その<J>の内実とやらが、これまたメンドクサイ問題であるが、「サブカルチャー」だったりするようだ。

マンガ、アニメ、ゲーム、とりあえずこの三位一体。

でもちろん、私もそれらは好きだったし、いまでも好き(といってもその絶対量は平均値以下だろうけど。といっても、以外と、こうした「サブカル」にまったくそまってない・はまっていないひとも、けっこういる。)なわけだが、ここもどうなんだ?

実定的に実在してきた「サブカルチャー」。
…幼年期あるいは幼児的な状態への回帰、固着。内へ。さらなる内へ。

幾層にも織り成された内在平面の探究?

プルースト主義?

「記憶」。

たんねんに、その襞を追い掛けて行く作業。


そして。つまり私がいいたいのは、これまたモダニズムのヴァリエーションだろうと。あるいはロマン主義
ロマン主義モダニズムとの関係も不明。

サブカルチャー」があるのではなく、むしろそれらはすべてモダンのヴァリエーションであるということ。



たとえば、映画との比較対照。
ルメートルやバザン、ロメールゴダールらのみが指摘したわけではないが、映画が、それまでの芸術の歴史のなかに帰属するということ。
 そして、映画が、「過去」の芸術の頂点であるのかもしれないが、しかし映画に芸術史を還元することはやはり認識としては間違っているということ。
 
サブカルチャー」の問題はその相似形である。アニメはもとよりマンガも、明らかに、芸術の歴史に帰属している。絵画はむろん、映画も、つねに参照されている。
 「ドラゴンボール」の魔人ブー編のタッチを当時見ていて思ったのは、これはもう絵コンテのようだ、ということ。まああれはテレビ放映版アニメともろ連動して、というかそういう戦略として、売られていたと思われる。

個別の領域とでもいえばよいか、下位領域としてのジャンルは、たしかに独自に集中し、独自にその歴史の軌跡を描いて行く。それはたしかにたいへん面白いものだ。

だが、私はそこに状況的ではないある普遍的な尺度をどうしても持ち込んでしまう。より精確にいうなら、歴史的な尺度、もっというと、人類学的な尺度とでもいえばよいか。

手塚治虫に、私はたとえばロッセリーニの共振を見る。というか、どう考えても、手塚先生は、ネオリアリズムの嫡子である。むろん、それより前にはディズニーだが。

…例を出すときりがない。

一般史と個別領域のことをいいたいのだろうか。


上演芸術に戻れば、それは時間(音楽→シーケンス、ドラマトゥルギー)、空間(平面芸術、立体芸術ともに含む)、言語(戯曲、文学-思想、身体言語-舞踊)を統合するようなものである。つまり綜合芸術ということ。

ここ、また映画と比較すると、複製芸術と上演性=ライブ性の問題もあり、あるいはそれは空間の次元が異なる。とりあえず映画は、平面である。時間と「言葉」(コンテンツ)は、まあ同じように要素としてある。

上記、また問いを差し換えれば、舞台芸術に固有の問題とはなにかということ。そこで「生」や「身体」とかの問題を避けて通ることはできないのだが、短絡はさけたいところ。
といいながら、問題を羅列するだけで、十分短絡なんだが。