大地の震えと生存の美学

さっき、大地が震えた。私はトイレにいた。
先週、土曜日にも、もっと大きな震えがあった。
そのときもトイレにいた。
なんなんだ。

この偶然性になにかしらの必然性=神の意志を見ることができるか?

トイレといえば、故種村季弘さんが読書空間として論じておられたことがあった。トイレの社会史とかの本もあるから、それを読むといろいろ面白いのかもしれない。

それで、トイレという「部屋」はいうなればプライベート空間の限界ともいえるような空間である。
それで、その極私的空間にいるときに、二度も地震と重なったわけだ。
それで、トイレで死にたくはない。
どうせ死ぬなら、劇的に死にたいあるいは美しい場所で死にたいと、ロマン派の末裔としては、思う。

私がトイレと地震との間にいる事態について、いいたいのはこの点である。
つまり、トイレでなんか死にたくはないということが、審美的な判断によるものということ。
死際、死に様、死に場所を見つけること、そこへ賭ける情熱とは、まさにロマン主義的な美学といえる。
そうしてさらに書きたいことは、そうした美なるものがどれほど人々を決定しているかということ。

美への欲望。美というイデアに接近したいということ。

yくんとも先日話しもし、またずっと廻りを旋回している問題が、趣味判断の問題なのだが、それは畢竟は、美を巡るものだ。

そうして、美とは感性的な判断である。
論理的判断、悟性的判断、理性的判断、まあいろいろ判断にも種類がある。政治的判断もあれば、倫理的判断もある。そこへ感性的判断、美的判断も入る。判断。判断。…

最終的な審級がなんであるかも、10colours。



…生存の美学ねえ。

衝迫、切羽詰まる。

最後。

バートルビー的なネガティヴィティ。
倒壊する。

倒壊した瓦礫のなかで。

消極主義?否定主義。

埋もれて行く。

闇になかのさらなる闇。

層をさらにめくっていく。

潰れる。

チューブから押し出される絵の具。