内的要素としてのコンテクスト/歴史

また吉田一穂関連に戻ると、思潮社から出ている詩集には、三好豊一郎が寄稿している。
それで、忘れないうちに、書いておこうと思ったのが、土方巽公の「病める舞姫」は、この三好豊一郎が、調整・校正していたということ。これはg先生から聞いたことだ。史実として、重要だと思われる。


 それにしても土方巽公を台風の目とした日本におけるポストモダンダンス革命は、詩と舞踊との関係の、相当な深度までいき、またゆえその強度もすごい、再編成であったともいえる。
 詩とダンスのコラボレーション、ではない。いや、あれこそが、詩とダンスとのコラボレーションともいえる。
 このあたり、私にとっては自明のことだったのが、どうもダンサー界隈では自明でもないようだ。もっとも大状況としては、そんな話しに進むことがありえないほどであるのだが。

 シュルレアリズム問題もあるし。これは日本では、かなり特異な展開を見せたと思われる。コンテクストはあまりにベタともいえる。

 私はそこには線を引いている。断絶しているともいっていい。とはいえ、どうしても、絡んでくるコンテクストではある。

 昨日、aと話していて、どうやら私は以前、「構成の倫理」みたいなことをいったらしい。それについて、いまは覚束ないのだが、いわんとしていたことは、コンテクストの問題であった。文脈化とでもいうべきなのか。もっと正確にいうなら、歴史意識といってもいいのかもしれない。

 「内的要素」としてのコンテクストとでもいうべきか。