文字

宮沢賢治といえば、2週間前ほどは、草野心平の「宮沢賢治覚書」を読んでいた。「阿耨達池幻想曲」を知る。すばらしいと思われる。(「耨(のく)」の字を調べるのが少し大変だった。)アノクダッチと読む。

高校の時、はじめて全集なるものを図書館で借りて、読んだのだったが、それが宮沢賢治だった。もちろん全部読んだわけではない。でも、「全集」を読むことの楽しさをはじめて知ったのはその時だった。
 それ以前にも、中学一年の時、進学校に入学したうれしさと気合いで、入学式の日の翌日かなにか、とにかく入学して間もない時に、川端康成全集を借り出したことがあった。しかしそれは時機と順序を間違えた不幸な体験であった。その体験は、以降、その学校で、読書が非常にやりづらい環境であったことの前兆であった。日を経るにつれて、疲労と絶望が増していった予兆でもあった。川端康成との出会いということでも不幸であった。はじめに「掌の小説」を手にしておけばよかったのかもしれないが、全集に収められたいくつかの短編で、面白いと思えることはなかった。
 
 これもまたきちんと想起して、書きたいことなのだが、小学校6年の時、芥川龍之介の「奉教人の死」をなぜか読んだ。なぜか知らないが、相当、熱中した。難解な文を読む、あるいは解読する喜びと、そのプロットに、もしかしら自分を重ねたのかもしれない。

 芋づる式に、記憶というのは辿られるものだ。幼少期の自分にとって決定的なものを思い出した。私は漢字が大好きだったのである。知らない漢字を知っていくこと、暗号解読のような楽しさ、そうしたものに導かれていたのだと思う。

 後に私は哲学を好むようになったが、いま思えば、あの時の、文字への嗜好が原型になっているような気がする。

 文字、哲学、それらを貫通するものが、私にとっては、詩であった。