非歴史主義、コンテンポラリー主義とか

 もうずいぶん以前より、同時代における非歴史主義とは、私は距離を取ってきた。ので、あまり興味も持てなかったのだが、どうにもこうにも、一部の非歴史主義らによる、巧妙な戦略地勢に、関係ないともいってられないようだ(「業界」というやつだ。)。しかし個別に論ずるのはめんどくさいから、「業界内問題」はカットする。

 しかしこの非歴史主義、あるいはそれはまた現在主義とかいってもいい。同時代主義=コンテンポラリー主義ともいっていい。

 私はこれはまた、モード主義ともいえるとも思う。ひとことでいえば、「流行=モード」である。

 
私がまだ10代だったときに感じていた問題が、また回帰している。
私がクラシック・ロックと出会い、そこから、音楽への旅が始まったときと同じ問題状況。

モード主義=コンテンポラリー主義は、だいたいがいつも、非常に閉鎖的である。セクトを作る。
それが、私がこれまでも、そしていまもなお、そうして、これからも、嫌悪する理由である。

歴史の忘却、という観点からすれば、それは修正主義でもある。

一方で、歴史主義の名のもとの権威主義がある。それへの抵抗が、コンテンポラリー主義の発生動機であったりする。


 保守革命というやつか。


 しかしながら、業界内視野でのみ見てると、分からなくなる。実際、どちらが保守かも見えなかったりする。

 だから、やっぱり、「外」よりの視点だけが、重要だ。
 それは上演芸術でいえば、それ以外の、「社会」。とりわけ、「一般社会」との関係である。

 上演は、そのような意味での社会的機能から、考え直されるべきだ。ダンスも演技もセノグラフィーも、そこから考え直さない限り、たんに、身内の政治で終わる。アカデミズム内政治と同様の事象にすぎない。

 「外」というとき、たとえば、パゾリーニは、「過去の力=伝統」を持ち出した。パゾリーニの独自の歴史主義については、「油田」の根本概念にも関わることだ。
 
 なぜパゾリーニは、「伝統」にのみ由来するのだ、といったのか。
 それは、簡単にいえば、上記ちょろっと触れたような非歴史主義という今日のファシズムへの抵抗ということであった。

 ああ、The Swan SilvertonesのGo aheadが染み入ってくる。

 
今日は、非歴史主義の典型のような舞台を見た。あ、典型というのはいいすぎであるが。
別に上演内容を批判しようとは思わない。それこそ、ひとそれぞれ、ある必然性を持って、リスクを背負いながらやっているのだから。それに、こうしたリスクを背負うこともなく、また必然性もないまま、お稽古ごと的に、「上演芸術」を、悪しき意味での「教育」、つまりブレヒトの「教育演劇」のヴィジョンとはまったく逆の「教育」で終わっている種の上演(実際の「メジャー」のほとんどの上演はこれに類するものだ)に、比較すると。というか、比較することもない。

うーむ、だから、あれか、業界内部での歴史主義/非歴史主義の問題には、やはり、いまのところ、興味が持てないのだ。

実際、ワンコンテクスト内の問題とかいうなら、私は本を読みたい。

とはいえ、私の環境世界は、どうにもそうした「特殊社会」にある、というもどかしさがある。