悪霊による福音書、表現について
私はこれまでも、「悪霊」だったし、「悪霊」しか友がいない。
「死霊」といって、中立化したくはない。これは、怨念なんだ。
パゾリーニ(ばっかりだが、しょうがない)もメルヴィルも、アルトーも、オデッタも、ビリー・ホリデイも、「悪霊」でなくして、なんだというのだ。
そうして、このような悪霊による歴史の召喚は、そもそも権威主義など、成立しないのだ。真の意味では。権威主義のようなものが現象するようなことがあるとすれば、それは趣味戦争に関する時だろう。
なぜなら、悪霊は、いつだって忘却されているからだ。
幸徳秋水もパゾリーニもキング牧師も、いつだって、「忘却」される。
それはつまり、「悪魔」が「悪魔」たるゆえんとしての。
去勢=カストレーションされる。
あ、この主題、引き継ぎます。
なるほど、ひとりでいろいろ納得するところがある。
たとえば、ベタな「表現行為の根拠」。
「表現」が「他者からの承認」(uさんの遺言のような文でも使用されていた主題だ)にすぎないという次元と、それが「承認」に至らずとも、叫びがあるような次元。延々さきほどより耳に響いてくるスワンシルヴァートンズの声=音は、明らかに「他者からの承認」の次元を突き抜けている。
福音。
神の愛に叶わんとして。
そういうことだ。たんに、ただ、それだけだ。
その次元を一切無化するような行為(言説行為にせよ、上演行為にせよ)あるいはあらかじめネグレクトしたうえでの行動は、なんのことはない、プチファシスムにすぎない。もうすこし抑えていうと、たんに、順社会的な行動。
以前、別の文脈で、私は「美的革命」うんぬんといったことがあった。
しかしそれが、技法であるとかコンセプトであるとか様式だとか、なんでもいいのだが、こと上演芸術の表現言語に関する限り、それらはすべて意匠=セノグラフィーであるといえる。
しかしそんなことではない。なかった。
「美」なるものが、「叫び」なしに成立するとしたら、それは、文字通り廃棄物としての「優美さ」である。