暴力表象論
と書いたものの、題のみ。
今日の舞台でも暴力表象は使われる。私も別種であるが、使う。
というか、ある意味、よく使われてもいる。
もっとも卑小な意味での「優美さ」は、たんにファックであるとして、それに対して、暴力表象が導入されている。今日の意匠として。それはそれで別に考えないといけない。
というか、あれだな、やっぱり上記したように、セノグラフィーの趣味戦争にすぎないところで、こんな重要なこと考えても、仕方ない。仕方ないけど、どうにも御対面しなくてはならないのかね。
まあ、なんにせよ、自分のやることには、責任を持たなくてはならないわけだ。
だから、暴力を表象化するとき、どのようなコンセプトのもとに、そして、それがどこへ回収されてはならないのかを、見定めなくてはならない。
結局、また、「諷刺」とかに戻ることになるのだろうが。
人生あるいは社会あるいは世界の悲喜劇の模倣=ミメーシス。