「概念論」、「概念」とはなにか

 概念論という視座で、私はたんに、各時代における概念を調査することではなく、むしろ「民衆」を新たに定義したいという目論見を示したかった。
 カタログはむろんカタログで重要だ。しかしそれは資料編纂であって、「論」ではない。
よく、私は「定義論」ではなく、みたいなことをいう。そのとき、念頭にあるのが、このようなことだ。しかしながら、むろん、「論」はすべて、同時に「定義論」でもある。
 新しい定義を構成すること。定義の新基軸を展開すること。
 しかしその「新しさ」というのも、結局は情勢に左右されるものだ。要は自分で納得する定義を探すこと。だから、その定義は、「古く」てもいい。
 で、こうしたことも、また前提的な話しにすぎない。
 どうすれば納得がいくのか。そんなことは知らない。
 結局、まだまだ道は迂回したままだ。
 
 定義とはなんなのだろうか。それは、ある項目(問題の対象)のコンテクストを描くことであり、また、性格・特徴を描写することでもある。
 このへんは、「概念」とはなにかという問いでもある。

おそらく、真に納得がいくときというのは、ある理念的な形象と出会うときなのだろうと思う。ここでいう理念とは、一般概念が価値づけられた、いわば高度に練り上げられたもののようなことを想定している。概念の彫琢、彫刻。
 概念の芸術、といっていいのかもしれない。
 概念の建築、という隠喩法だと、もちろん、建築によく譬えられる哲学のイマージュが想起される。
 概念の絵画、というとどうなるか。立体的ではない、ある平面。
 概念の音楽、というとどうなるか。これはさすがに成立しない。セールやプラトンではないが、音楽は、実に独特な、他に還元しようのないもので、それは無定形、無形象ともいえそうである。しかし、音楽といえど、構成はある。その構成作業がある以上、それは建築とも類される。ただ、ひとつあるのは、音楽は、音の広がる場所、空間性を、時間に凝縮したものということ。それは氷のようなものだ。あ、でもこれまた他の「形象」も同じであるか。
 概念の舞踊。これはどうだろう。あるいは、概念の身体。概念の運動。
 舞踊という概念自体、もう、いつも混乱させられているから、あまり考えたくもないのだが、やはり運動という契機は外せない。ではなにが運動するのか。身体が動く。そりゃそうだ。しかしそれはなんなのか。時間が運動する。時間という主体。空間を運動する。空間が、運動する。あるイマージュ、影のような形象が、運動の継起のなかで、きりむすばれていくこと。…

 置き換えること。ある言葉から別の言葉へ。ある言語体系から、別の言語体系へ。