ムルナウ、スペクタクル

ムルナウファウスト」。
なんというか、最高である。笑えるし、また泣ける。楳図かずおの「わたしは真吾」にも通底する圧倒的な世界。
もうとにかく、豊かである。
 照明が、舞台照明でないと出来ないように感じられるものだった。バイオグラフィーを見ると、なんと、ムルナウは、マックス・ラインハルトのところにいた。ドイッチェステアター(ドイツ座)である。
 エイゼンシュタインとメイエルホリド、ムルナウとラインハルト。
マックス・ラインハルトといえば、岩淵達治先生が、以前、シアターアーツで、20世紀の演出家で選ぶとすれば?という主旨の特集号に、ブレヒトでもなく、このラインハルトを挙げられておられた。
 ブレヒトはたしかこのラインハルトのスペクタクルを批判するなかで、自身の教育演劇を構想していったはずである。
 ラインハルトの舞台映像が残っているかどうかは知らないが、おそらくはこのムルナウに、ラインハルトの痕跡を見ることができるような気がする。
 このフィルムは、もう圧倒的なスペクタクルである。圧倒的な光。ありえないような、奇跡性を感じさせる。
「愛」だけが。「わたしは真吾」は、この「ファウスト」の子孫であるように思われる。楳図が見ているかどうか。しかし「ノスフェラトゥ」の監督作品ということでも、当然見ているだろう。また、手塚治虫も当然。見ているだろう。漫画「ファウスト」の衣装は同じだったような気もする。
 物語からいえば、「デビルマン」というもっと終末論的な作品とも比較できる。「デビルマン」と比較したら、「わたしは真吾」の方が、よりムルナウに近似しているというか、奇跡劇というか。

 奇跡といえば、ロッセリーニに同題作品がある。内容はともかく、その映像形式において、ムルナウとはまったく異なる。時代も違うし、またリアリズムだからだろうが。そのリアリズム様式を採用した理由に、ムルナウなりのスペクタクルが、あったのかもしれない。

 グレコレンブラント、その他、美術史よりの引用も多く、また構成/展開も、「これが映画である」と、自己指示しているような、とにかく、すさまじく、早く、また豊かで、独自である。
 はじめはロメールもマニアだなあとか思っていた。見終わると、もう高揚してしまい、うるうる状態であった。

スペクタクルについては、ドゥボールらによって、批判的に考察されている。それはすごく重要でもあるだろうので、再度ドゥボールに挑戦したいものだが、このムルナウのスペクタクルをいかに救済できるかという個別の問題が、差し挟まれた。
 スピルバーグの「インディジョーンズ」とかを代表するハリウッド・スペクタクルと、ドイツ表現主義時代のスペクタクルとの比較。
 ムルナウの「サンライズ」はハリウッドで成功しなかった。それがなぜかは映画史的に考究されなくてはならないが、ムルナウがハリウッドでひどいめにあっていたことから、ムルナウもまた「悪霊」となった。
 もっと反芻したい。もっと見たい。

今回はスケジュール的にフェスを追いかけることはできなかった。ラングの「ドクトル・マブゼ」の後半での博士の発狂だったかなにかのシーン、車を飛ばしていて、頭から赤い文字=妄想文字が、飛び出していくシーン。ああ、見たかった。とにかく、映画のコードがまさに作られていった時代。歴史が作られていった時代。いまでもすばらしい映画は作られているが、やはりこのころ、というか、ラングとムルナウ、強烈である。