スペクタクル社会

昨日のエントリーで、森下貴史くんという文化批評家による突っ込みがあった。問題提起としては、問題の素材となったムルナウの「ファウスト」に関してというより、むしろそれに触れるなかで私が出した「スペクタクル」という概念およびそれを巡る感想に関するものであった。
 同時に、ブログ言説・ブログ言語あるいはブログるというウェブ上での書記行為に関することも批判された。
 文脈としては、イマージュオペラの活動の動向と、名古屋で活動されておられる演劇思想家の海上宏美さんらの廃業調査会の論理・言説があった。
 これらの文脈のなかで現在私にとって最も重要な問題が、やはり「スペクタクル」という概念である。
 スペクタクルについて、すさまじいヴィジョンで問題提起したのが、ギィ・ドゥボールである。
 http://www.nothingness.org/SI/

 http://www.fmic.net/Kino_Balazs/KB_DB/KB_no51.htm
 http://blogs.dion.ne.jp/wuemme/archives/635250.html
 とかがネットにあった。

それで、ドゥボールの本は数年前に触って以来、きちんと読んでいないまま月日が経った。このあたりもまた、ブログ書くひまがあるのなら、読めと怒られそうだが、これについていうと、ブログの原型はむろん日記である。日記になにを書くかは各人各様であるが、私の場合は、日々の襞を記録していくことで、なんとなく整理してことが主眼である。結果としては、整理にならず、あらたにデータが増えまた混乱を増すことになったりもするとはいえ、書くことで、自分の思考の流れをセーブする、あるいはコントロールすることにはなる。
 実際、日々は圧倒的に進んでいくものだ。時間の流れの残酷さについては、古来より叙情詩人が嘆いたきたとおりで、これはもういうこともない。

 あと三日くらいでインドネシアに発つというのに、このような襞の綴りもないものだが、これはこれでいい。
 
 さて「スペクタクル」であった。ドゥボールスペクタクル社会論については読んでからでないと書くことはできないが、それはそれでまた別の作業である。
 スペクタクルの語源がなにかは知らないが、日本では「見世物」という語があてられてきた。
 ググッテルと、ツーリズム(観光)の社会学のレクチャーがあって、そのなかに、ブーアステインの「擬似イベント」論が参照されていた。たしか邦訳題は「幻影の時代」であったが、原題はたしか「イメージの時代」であったはずだ。
 通常、大衆社会が成熟していくなかで、テレビジョンや広告産業などのマスメディアが巨大化し、大衆の意識を決定的に構成していっているという事態を問題化したものとされている。ここから、「それはイメージにすぎない」という偶像破壊をモチーフとした批判も行われる。しかしこうした批判もまた、社会の自己の内面のなかに回収されていく。
 ドゥボールのスペクタクル論は、ブーアスティンの分析の発展ともいえるようだ。

もう時間切れなので、あとでまた続けよう。

 ・スペクタクル社会においてスペクタクルとは何なのか。
 ・映画、演劇、音楽コンサート、サーカスなどのスペクタクルはそこへどのように寄与しているのか。
 ・非スペクタクル的な演劇・映画の系譜について。
 ・「表象」という概念からすれば、「表象社会」という概念もある。
 ・近代オペラ、近代の劇場を原理とした社会ということからすれば、「劇場社会」ということもいえる。
  etc.
 
 いずれにせよ私は上演芸術に関わっており、実作(実践)の立場からすると、上演表象をいかに考えるかは、根本問題のひとつである。いな、最大の根本問題であるだろう。
 森下くんはまさにそこを突いてきたわけで、それゆえ、提起に関してはこれからゆっくり応答しようと思う。
 
 すべてがスペクタクルである、すべてが表象であるということも、社会に関係するわたしたち、すなわち、近代化を実質の差こそあれ経てしまった「わたしたち」について、いうこともできる。
 そうしてここには、鏡の構造も介入している。