香港、meta-life

香港に行くことにした。「遊びで?」とsさんに聞かれたので、遊びといえば遊びですが、つまり即興パーティwですが、いわゆるナイトクラブで遊んだりwしてみたくはあるw
 完全な遊び、観光や買い物、ナイトクラブで遊ぶことと、上演からみで上演という遊びを遊ぶこと。どちらが健全かといえば、視点によるとはいえ、欲望を絶対的に肯定するという意味では、前者だろう。いやま、視点によるけれど。
 しかるに、ナイトクラブwでの遊びといっても、映画のシーンで見たことのあるような、なんとなくのネオンとか煙のイメージでしかない。酒と女とギャンブルというやつかw
 まー、ガッチリ稼いでからですねー。月に何億も稼いでいるひとがこの世にはいるようですが、本当にすごいと思う。経済ゲームとボードゲームの違いの最たるものは、やはりその主体性だろう。経済=リアルエコノミック・ゲーム?では、その本質はゲーム/ギャンブルと変わらないとはいえ、そのリスクを背負う主体性、つまり、自分が盤上の駒でもあるということ。
 人間の営為はすべて言語ゲームウィトゲンシュタイン)だとすれば、「だとすれば」とかいうこともなく、ただ、ゲーム、それだけということになる。
 ただ、人類は、その歴史のなかでw、いろいろな言語ゲームを作ってきた。
 そうして、社会はむろん、ゲームの集合なわけである。
 …どのゲームで遊ぶか、か…

 香港には、むかし三度ほど家族旅行でいったことがある。強烈な記憶である。ボンドビルとかまだあるのだろうか。なにせ、私がいったのは、80年代のことだ。いまでも焼き付いている街の記憶がある。
 あのばかでかいテーマパーク。子供だったから、最高に楽しかった。家族が最も幸福だった時。
 そういえば、あのころ、人生ゲームをよくやっていた。人生ゲームをやらなくなったころから、実存ゲーム、死のゲームにはまっていった。人生論ゲームというか、実存探求ゲームというか。
 香港旅行と人生ゲームから離れたことは、もしかしたらメタ視点=ゲーム感覚を見失うことになって、そうして、椎名麟三とかカミュとかに出会ってしまった、という流れだな。
 実存地獄編。そうなると、香港で私の幼年期は終わったことになる。
 
 人生ゲームか。幸福の追求か。

人生でなにをやりたいですか?
死というファクターから逆照射すると、むしろ死後になにを残すかが賭け金となる。古代ギリシアかなんかでは、そうしたものを名誉のモラルと呼んでいた、とたしかブルデューが話していた。この点に関して、かのデリダは、死後300年読まれるようなスパンで思考していると、どこかのインタビューで答えていた(たしか「他者の言語」所収)。たしかに、名誉のモラル、死後の生という点からすれば、プラトンほど幸福なものもない。

 チェス、香港ときて、meta-life。