身体性=限界性

体罰について思い出したのが、腕立て伏せ100回というものだ。これは合理的な体罰である。これはいい。つまり、殴る蹴るといった暴行系の「体罰」に対しては、それを受ける子供の立場からすればナイフで刺し返すとかいうことになるが、社会の原理のひとつとしての暴力性に耐えるという意味での通過儀礼的な意味からすれば、やはり「体罰」は必要なのかもしれないと私は考えるからだ。
 どういうことか。つまり身体性=限界性の認識を知るにはもっともてっとりばやいからである。この限界性の認識は、生きていくうえで必要である。昨今の多くの若年層犯罪の問題のひとつはこの限界の認識が欠如していることによるように思われる。つまり自我=世界は、無限ではないということ。
 しかしだからといって「体罰」の適用は結局、教師の判断に委ねられている。しかしまた社会は力の流れによって動いている。資本主義の暴力に比べれば、実は今回のようなことあるいは体罰なども、問題にならない。欲望の体系としての資本主義の流れにのるのであれ、逆らうのであれいずれにしても力が必要である。
 こうした観点からすれば今回の出来事は何の問題でもない。しかし、やはりこれは個人的な怨恨、復讐の感情に触れたものであったし、またそれゆえリアルなので、少し過敏に反応した。「体罰」の問題も一事例であって、それは根本的な問題ではない。