ダンスを観察するということ:ヤン・ファーブルを巡って

以下、id:mmmmmmmmさんによる質問への応答。


どうもつっこみありがとう。できるかぎり、説明責任をはたしたいと思います。ただし、ファーブルの今回の作品を肯定的に評価するとなると、どうしても現在の日本のダンス批評言説の状況との鍔迫り合いをしなくてはならない。それゆえ、話は、あの作品それ自体というよりも、いかにあのパフォーマンスを受容できるのか、といういわば前提的な話にならざるをえない。

 今回の作品は、スペクタクル主義を批判するという観点からは、たしかに、×だろうし、またダンスの強度も、およそ一般的な程度のものであったこともたしかである。ダンサーは健闘していたが、エントリーでも触れたように、「特異性」が再現できていなかった。つまりあの作品が捧げられた?なんとかというダンサーの動きが、影のように、想像される。その結果、現前する運動が、強度を提示できない。これはまあ単に、振り写しの問題でもあるだろうが、しかし、構成やセノグラフィーにおいて「強度」を提示するというような方向性が見えるのに、実質的なフィジカルな運動においてその効果をもたらさないということ、そのことは、やはり「特異性」は交換不可能であるということが、どのような事情があったにせよ(誤認かもしれないが当初チラシが撒かれた時点では、ダンサーの入れ替えは告知されていなかったように覚えている。)、認識されていない。あるいはもっと卑屈にとれば、なめられてんのかとも。いずれにせよ、あの作品は、「かの某ダンサーのための」と明示されている以上、この特異性ということを外して上演することは、どうなのとは思う。むろん、いまいう特異性なりあるいは固有性なりがなんであるのかという問題は、いまはおいておく。あと「強度」が求められる理念的な概念なのかどうかという問題もいまは保留。(ここでいう「強度」とは分業化に付随する「専門分化」におけるものであり、この「専門分化」が、バックミンスター・フラー的な観点からすれば「諸悪の根源」であるのならば、「強度」はもはや理念として採用されるべきではないのかもしれない。ただなんにしても「強度」をたんに専門的な技術に還元したり、あろうことか「キャリア」などという帰属先に限定することなどは論外である。ぼくのいいたい「強度」なり「特異性」はむしろどこにも帰属しない、あるいはすくなくとも、 帰属することを志向しないような傾向のことである。)

 で、のみならず、スペクタクル批判という観点からすれば、振付演出構成的にも、あそこに、求められる「ダンス」はないともなる。つまり、ダンスがダンスであるところの身体運動のレベルにおいて、あるいは、ダンスのコードの開発において、なんら新しいところはなく、それゆえか、シアトリカルな要素の美的な配置(構成)において勝負している。しかし仮にそういうパタンの批判をするとして、念頭にあるのは例えばフォーサイスなりのダンスボキャブラリー開発が参照されている(と想定する)。それで、その批判の批判したいところは僕は了解できる。できるけれども、しかしそれは作家が違う、作品が違う、作業が違うということを僕はいいたい。こうした作業の多様性を否定するあらゆるドグマティズムなりドクサは、すべてニーチェのいう「否定的一元論」であり、それらはすべてファックである。
 また、ダンスのいわば「本質」としての運動性の探求というとき、「ダンスなるもの」をその領域のみに限定することも、ひとつの方法的な戦略としては、一定程度有効であるとしても、それ以外の作業を、「ダンス外」のものとして、捨象することには、同じくその捨象自体が、限界づけられなければならない。  
ついでにいえば、このことは、今日のダンス批評言語の傾向においてもいえる。例えば、桜井圭介さんの「こども身体」は、たしかに概念としての新基軸を提示しているとは思うし、以前エントリーでも触れたように、旧来の「伝統的なモダンダンス」すなわち日本の「モダン」がモダニズムの子孫であることは、歴史的には否めないとしても、それはしかし、元来モダニズムが持っていた批判的契機を、ほとんど失っている、あるいは少なくとも、それは制度化され体制化され(「専門分化」され)、「アカデミズム」に回収されたのだ、といった業界内政治的な=パフォーマティヴな批判的な契機を持っており、その方法的な戦略としての価値がある。しかしながら、「こども身体」とは、いわば演出的なカテゴリー概念であり、観察理論としてはその機能を果たしえないとぼくは考える。桜井さんは賢明なかたであるから、そのことを自覚したがゆえに「批評家」を「廃業」し、プロデューサー的に振舞っている。そのこと自体を否定するつもりはないのだが、ただ、それはあくまで桜井カンパニー・桜井劇団としての運動であるということを、見過ごしてはならない。

 「こども身体」は包括的な客観的な概念ではなく(そのことは提唱者自身も認識しているだろうけれど)、あくまでひとつの特徴に焦点を当てたローカルな「演出的な」概念である。(いま「客観的」といったが、それは「主観」を排したという意味ではなく、「対象」を志向するという意味である。対象なしの「観察」などはありえない。とはいえ観察者なしに「対象」は存在しない。ここはいわゆる観測問題というやつかもしれないが、そのせいでかどうかはともかく、今日の「批評言語」がひどく「主観主義的」になっているし、みなが「裁判官」になりたがるような時代はもう終わるがいいと思う。「裁判官」になりたいのならせめてでも小林秀雄くらい「越えて」くれってねw(絶対に無理だろうけど)これは微妙に違うこととして指し示したいのだが、「趣味の戦争」は、これまたえげつないかもしれないが、これはこれでいいのである。「戦争」ないし「闘争」の契機は、ドグマティックな「裁き」などよりもずっと健全であるから。
 あるいはまたそれは記述的な概念でもなくまた「批評」的な概念でもない。それはひどく限定され、色付けされたものであり、それはたとえば一時の名称にすぎなかった「暗黒舞踏」をなにか一個の包括的な(たとえばジャンル概念として)あるいは絶対的な(たとえば神話化の過程において)実体として想定してきたことを想起させる。

 言説界におけるセクト主義=分離主義の問題ともいえる。ぼくはつるみ、セクトを形成することよりは、むしろ孤立を選ぶことの方が好きだし、それは途方も無い労苦を強いるけれど、やはりそれしかないと思う。このことは、むろん自身の発話の偶発性をつねに認識していくということでもあり、それゆえ、いまぼくが書いていることだって、偶発的な、いってみれば一時的、暫定的、仮定的、過程的なものにすぎない。
 なぜこういう批判を僕がいうかといえば、ではだれが、今日、ダンスを「観察」するのかということなのです。ダンスというパフォーマンス=「舞台芸術」は、まずもって、「対象」である(「批評」の対象としても、「鑑賞」=享楽の対象としても…)。それは、対象を認識する側の、つまり批評言語が、今日、ひどく貧しくなってしまっているのではないか。あるいは、そもそもこの日本において、これまでどれほどのダンス批評が行われてきたのか、僕はその言説の歴史を追っかける気力も動機もないが、しかし「批評力」=「観察力」を、だれが持ちえているか。
僕は、プロ観客としての批評家は、よりよいダンスの観察理論を提示することをもって職能とするのだと思う。そして、そうした「対象」としての「ダンス作品」を作るダンサーは、そうした観察理論なりをおりこんで、フィードバックさせ、よりよいダンス作品を提示していくことを職能としているのだと思う。 むろん、こうした相互作用はひとつの過程にすぎず、実際の現場には、より多くの領域においてそうした作業があるのだが。mくんは先日ブログで「コミュニケーション」などという言葉には疑義を感じる旨書いていた(よね?)。そのとき書き込もうかと思ったのが、まあいいやと思ってしまって、書かなかったのだが、僕はダンスとその受容(観察・鑑賞)とは、ある全体的な経験的な過程であり、それはやはりコミュニケーションの過程といっていいと思っている。それゆえ、ダンスは、コミュニケーションメディアであるということもできるだろう。ただ、こうした(僕は素人なので適当にいっているが)システム論的な説明にはとどまらないとたしかにいいたくなりはする。それはおそらくは、さまざまにコミュニケーションが歴史的に発展していくなかで、分業化・分化が行われ、工学的なテクノロジーと美術的な技芸とが分化されていき、今日いう「芸術」なる専門領域が成立してき、たとえばそれが一般社会的にはかなり「特殊な」=「高度に専門化された」作業を推し進めてきたがゆえに、見失われたためだと思う。そうして、批評のジャーゴンとしての「お芸術」批判とはこの「専門分化された芸術」のことを指している。しかし芸術とはそのような「専門分化された芸術」とかドグマなどとは本来、関係がない。「専門分化されたもの」ではないもの、それはむしろ「追随」行為にではなく、「抵抗」行為に関する事柄のなかで見いだされるものだと思う。ドゥルーズはだからこそ、「芸術」を「来るべき民衆」という概念とともに論じた。
  戻ります。 で、とりあえず、パフォーマンスを鑑賞=観察するさいには、ある観点なり観察理論なりカテゴリーなりをぼくはつねにできるだけ保留したいと思っている。そうしないと、観察より前にあらかじめ組み立てられたある限定的なカテゴリーにあてはまらないものは、観察=認識されないから。そうなると、その観察行為そのものが成立しなくなる。観察の方法的なカテゴリーにしばられることにより、ダンスを対象として観察=評価できなくなるという事態です。なぜこのことをくどくどいうかといえば、「レヴュー」と称して、生産的な観察作業を伴わないたんなる「感想」が、とりわけニッポンの「ダンス・演劇界」にはあまりに多くたれながされ、結果、なんら「場」が形成されることもなく、受け手・発し手相互に閉塞し、貧しい環境をつくってしまっていると私には思われるから。悪しき意味でのぼんくら「趣味判断」の跋扈。それは「趣味の戦争」にすらなっていない。「多数派」あるいは「セクト」を形成し、ヘゲモニー闘争にあけくれ、結果、ますます閉域を作ろうとしている。こんな事態は好ましいわけがない。

 さて、こうしたことがらを前提として、では、あのパフォーマンスをいかに評価できるのか。
 さて、ヤン・ファーブルについてエントリー化しようかなと思っていたときになんとなく出て来た言葉は、「古き良きヨーロッパ」あるいは「シュルレアリズム」問題とでもいうべきもの。これについては、現在考え中だし、また、かなり大変ではあるし、うまく説明できないのだが(それゆえエントリー化できなかった)、まずいわゆる「よくできた」ものであったことはたしかでしょう。構成は単純で、装置も照明デザインもシンプル、テーマもコンセプトも、コレオグラフィーも、すべてが、「単純」でシンプル。ファーブルのそうしたシンプルな構成技術を、僕は「簡素さ」の原理と呼びたい。この「簡素さ」については、以前、バウシュの「バンドネオン」について、さる友人とやりとりしたときに出てきた言葉であるが、出典は、なにかの論文wで、たしかそれはヘルダーリンについて論じられたものだった。僕はこのヘルダーリンを「観察」する作業のなかでだれかが出した「簡素さ」という概念(あるいはヘルダーリン自身の創作上の理念だったかもしれない)を、ヘルダーリンに強く影響を受けたベルト・ブレヒトの仕事にも応用できると思われたし、「バンドネオン」のバウシュの構成手法にも応用できると思われた。まあ、「チープ」ともいっていいのだが。この点については、あるいはまた、リンチの「マルホランドドライブ」の「チープトリック」ともリンクできるし、清水崇の「呪怨」にも応用できる。また、私自身がかつて構成モデルとして採用したものでもある。この「チープさ」は、「経済性」ともいえる。しかしこのあたりのは話はアイデアのレヴェルのものであり仮説的なものにすぎない。
 それで、今回の構成はそのような「簡素さ」の達成においてそれなりに評価できるとしても、他方で、そこで展開されるイメージ操作=配置や、そのモチーフ素材としてのイメージなるものも、神話を参照したものであったり、シンボリズムの伝統からはなれない、ありがちといえばありがちな、つまり、モダニズムステレオタイプからなんら逸脱するところなく、「うまくまとめられたもの」であった。
 主題系においても、エロ、美、オブセッション、「強度」(振付のコンセプト上の)、オリーヴが生命でうんぬんといった古典的なシンボリズムなど、いろいろ掘り下げていくこともできるだろうし、また同様、それらをすべて、古臭いとして片付けることもできる。で、ぼくが「オーソドクシー」といってたのは、そうした古典的な側面のことである。批判するとなれば、そのような点から、あの作品は、結局、ただの趣味共同体としての「芸術界」の嫡子による教科書的な上演であり、それゆえ、そうした趣味共同体に帰属することを感性的=「美」的に、追認し、享受するものにすぎない、となる。  さて、では、かく古典的/正統的=オーソドクサルであるがゆえに、あの上演はだめであるのか?すでに上記したように、そのように批判する観点そのものに対して、ぼくは、批判的カテゴリーによる一様的な判断よりも、より多様な作業を評価するほうが好ましいと思う。
 このように批判する論拠あるいは今日の批評言語を反批判することは、逆にいえば、あの上演を対象として見なしていないとなるかもしれない。また、このような迂回をせずとも、あの上演を記述しながら肯定的に評価できるかもしれない。しかし、あの上演の報告については、すでに当日配布されたパンフレットの文でほぼ網羅されている。しかしながらあの文が、上記してきたような状況のなかにただちに埋め込まれるとは思われない。遊離している。そして、その遊離しているところは、多くの海外の作品を日本で招聘するさいに問題となるところである。それゆえ、ぼくはその「隔たり」という領域を記述しながら、経巡った。「遊離」というのは、批評なり受容なりあるいは他の文化領域なり社会との関係においてである。
 つまりあのような「古典的前衛」あるいは「前衛的伝統」に則った系統のもの、すなわち「近代芸術」が、社会の欲望なり現実なりから「遊離」している。しかしその「遊離」をもってあの上演の価値を決定することはできないはずだ。
 あの上演はまずは「それ自体」として、つまり「対象」として観察されなくてはならないだろう。それをたとえば日本ローカルのコンテクストにおいて「遊離」しているがゆえに、「無価値」であるとか「リアリティがない」とかいうことで、裁いたところで、ますます「ニッポン」が閉域となるだけであるし、あるいはそのようなローカルな評価それ自体が、「ニッポン」の閉塞状況の兆候である。
 ローカルでなくユニヴァーサルな基準を採用するということは、「グローバルスタンダード」などとは一切関係がないし、また、「欧米での評価」などでもない。こうした観点からすれば、あの上演はヨーロッパローカルなものにすぎないとなる。たしかに限りなくそうであるかもしれない。しかし僕はあの上演で閉じないある作家の精神の潜在性なり感性を想像できた。つまりヤン・ファーブルという作家の持続的な作業のなかの過程を覗けた感があった。ぼくの評価とはその程度である。だからあの作品を「奇跡」だなどというのはいいすぎだろうし、また前記したように、あるダンサーの特異性およびそれと演出との共同作業に対していわれたものだろうと思う。こうしてぼくはあたりまえのことしかいっていないが、つまり宣伝文句なり前評判なりによる予期された次元ではなかったことはたしかである。しかしあの上演に表されるモダニズムのオーソドクシーの潜在力は感知された、ということだ。

 あらためてまとめると(といっても相変わらずまとめるのは苦手である)、