スペクタクル

あの上演が素朴なスペクタクルに終わっていたかどうか。それは「モダニズムのオーソドクシー」を優雅に(傲慢に)上演されたものだった。それはたしかにかなりいやみではあったかもしれないが、さりとて悪しきスペクタクルではなかった。「悪しきスペクタクル」とはもっと大衆の保守的な感情を植え付け強化するものであり、それはむしろ一見「良心」や「正義」を代弁しようとするものである。映画でいえば「インディペンデンスデイ」、舞台でいえば自称社会派の演劇であったりするような、「否定的一元論」的なものすべてである。ファーブルはすくなくともそうした一般的なスペクタクル美学に準じようとはしていない。