多様性・多数派の美学・偽善

多様な作業があるということでファーブル批判を反批判しようと私はしているが、それでは「悪しきスペクタクル」は多様性のひとつとして擁護されるべきか?いな。 「悪しきスペクタクル」とは圧倒的な多数派の美学であり、それを擁護することは優先性の観点からいって行うべきではない。
 この「多数派の美学」こそが、ラース・フォン=トリヤーが「ドッグヴィル」で描く人間の偽善性であり(しかしトリヤーは裁いた。だがこの裁きはひとつの例証であり、裁きにいたるまでの体験が保証となっている。ホロコーストあるいはテロリズムを選択するのはしかし、悪を受け入れたもうひとりの偽善者であった女主人公であった。つまり善はどこにも存在しない。)、ファーブルは偽悪的なぶりっこで(コケティッシュ)はあったが、すくなくともそこに偽善の表出はなかった。悪の観念に触れることよりも、悪を抑圧しおのれを善であると想定することの方が、ドグマティズムに親和的である。それならばやはり、悪の問題から目を背けることよりも、むしろそれへと直面する勇気の方が好ましい。