1.「<帝国>と戦争」(2004)

アントニオ・ネグリの演劇論I「<帝国>と戦争」ベルリン芸術アカデミー・ハイナー・ミュラー会議04,1,10.

1. 超越性の偽造と内在性
・修正主義者ノルテによるレーヴット歪曲:「レーヴィットは人間の本性と超越性を主張したがゆえ、当時政治的な立場をとらなかった」:[超越性の偽造]
・→レーヴィットにとって超越性はそのまま歴史的真実の内部にあるものであり、歴史的真実を揺り動かし、ときには導くものでもあった。それは内在性に向かう超越性であり、内在性との対決において劇的な様相を持つものであった。(マルクス、シュミット、ヴェーバーにおいて露呈した近代的なものの緊張)

ミュラーも絶対的内在性を通じた(超越性と内在性の)移行に関心があった。
・現在の「内在性」は、敗北した緊張しか知らない。[シニシズム]

◎内在性とは:「この世界は外部を持たない」「この世界の構築と必然性は世界の内部にある」という考え方
:世界は絶対存在でなく、つくられたもの。 cf.構築主義
ポストモダニズム
・→内在性の思想は、ポストモダニズム(「マルクス主義の偉大な異端派」)の主張でもある。
・生権力の発見:社会全体を生産する駆動力としての権力形態。
◎抵抗:
→だが、ポストモダニズムは抵抗を忘却していた。
→・抵抗を<帝国>の周縁においやった。
マルチチュードの蜂起を想像することをしてこなかった。
・「抵抗する単独的存在の多様性」を想像することをしてこなかった。
 ・もろもろの主体の系譜や単独的存在と抵抗の代替的な生産の分析と発展にもとづいて、もうひとつの世界を樹立することの可能性を主張してこなかった。
ミュラーは、内在性のこうした領域での活動を促し、ノルテのような超越性の偽造を、あらんかぎりの力を振り絞って遮断してきた。

 2. 生権力
◎生権力:権力が社会関係の全体を覆い尽くし、権力が社会関係を構築するようになったこと。
→グローバルな時間と空間における社会的協働の管理→生の支配
「権力はありとあらゆるかたちで、生産と再生産のありとあらゆる多種多様な接合にしたがって、生の再生産の生政治的なコンテクストを覆い尽くす」p.53

ミュラーフーコー:「ミュラーは、近代と社会主義という政治的コンテクストのなかにあって、新たに現存社会主義の危機において再提示された奴隷制という生政治的な経験のあの重たさにふたたび光を与えるために、フーコー同様、“仮面を被って歩んだ”」

◎<帝国>の生政治:「規律」から「管理」へ。
「生産」から「生産の組織化とその空間のヒエラルキー」へ。
「社会的連関の構築」から「主体性の生産の持続的な試み」を通じて。
マトリョーシカ式・入れ子状の包摂
「生は規律に包摂され、そして規律は管理に包摂されている」p.54
・権力=執行において自らを正当化する暴力
・困難や抵抗が現れると、<帝国>は「例外状態」を対置する。  例外状態=「予防戦争」「無限定の戦争」

3. 弁証法から倫理の存在論
◎古い弁証法も、内在的。ブレヒト
・資本主義に内在する支配過程の必然的崩壊というプログラム
・「解放」の劇的・終末論的なビジョン。
ミュラー
・だが、資本主義的な暴力と破壊的な指令は、現存社会主義をも覆い尽くしてきた。
・広島、アウシュビッツ、グラーグ、新しい<帝国>の戦争のあとで、思考している我々。
弁証法的な分離を超えた、内在性のもうひとつの姿。
=主体の可能性、消去しえないひとつの出来事、明らかになりつつある現実感覚の発見にもとづく内在性。
・「弁証法」でなく、「敵対関係」「人間的なものに刻印された解決不能な危機」を見据える。
そしてまた、「系譜学」「変様の潜勢力」を対置する。
ミュラーを見出す場所とはこのようなものである。

◎カンメラーの指摘
ブレヒトのテーゼ=歴史の弁証法的発展への確信「大洪水でさえも永遠には続くまい」
ミュラーのアンチテーゼ=人間学的な亀裂の出現を指摘し、強調し、発展させている。=教育的というより、テロリズム的、弁証法の切断  「人間的なものすべてが疎遠なものに転化する」

ミュラーは現在わたしたちが経験している大いなる存在論的移行を演劇的に先取りしていた
・西欧(資本主義)世界と社会主義世界との符号の間にある非弁証法的な悲劇
「人間たちは、西洋世界においては人間たらんと欲しながらも、たぶん現実的には猿でしかなかった。また、社会主義世界においては猿として生きていながら、しばしば人間として振る舞ってきた」
 スピノザ:野獣であることと人間であることとのこうした関係を、時間のなかの逆説、そしてまた肉体的な努力(conatus)を自発的な欲望(cupiditas)と構築的な知的な愛(amor)へと変換することのできる逆説として解釈しえた。
=倫理(自由な人間の自由な振舞い)が存在論として提示されるという逆説
=抽象的な主体でなく、現実の歴史の発展のうちにある自由な人間を、倫理的に構成することとして提示されるような逆説 (cf. ひとは歴史的にそして倫理的に構成されている。)

4. 内在性とミュラー演劇
<新しい内在性をいかに演劇的に表象するか><外部のない政治的なものはいかにして可能か>
=<思想とユートピア(計画の批判)との間の距離はいつなくなるか>
<シンボル的なもの(ミメーシス)と主体的な現実的なもの(カタルシス)の表象上の交換は、いつ媒介をもたないものになるのか>
 これらの問いに答えるために:
A)理論的かつ演劇的な行為の場所を定義すること
B)運動と運動形象を生み出す力を突き止めること
C)わたしたちによって構築され、その経験の一部となるような共同的なものを定義すること
が必要。
ミュラーを読むと:このような存在論的な現実のまっただなかにいるように思われてくる
ミュラーのなしたこと:
弁証法的な再吸収の不可能な場所をつくっている。
・群れの複雑性のなかにあって分散しながら決断の瞬間に再構成される批判的な力を突き止めた
・ひとつの共同的なものを構築している。
→際どいものだが、そこには行為と希望からなるひとつの編成が存在していて、不断にその共同的なものを経由している。
→だがこれらの緊張が広がっていくのをただ待っているだけではだめ。簡単に内側で破裂してしまうこともある。
→むしろ、あらゆる必然性・弁証法の外部にあって、こうした過程が起こりうるということをつねに信じているべきである。
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5.演劇・運動・共同的なるもの
A)演劇的ならびに理論的な行為の場所
ミュラーは、周辺的なものでなく、生権力による管理にもとづく諸関係の中心部に位置しているような演劇的ならびに理論的な行為の場所を定義しようとしている。
 →演劇的言説の中心部への位置移動→ポストモダニズムとの衝突
ポストモダニズムは内在性と抵抗を周辺的な要素としてのみとらえており、自然主義的。
 →抵抗が単独的存在の系譜学として中心的な位置を占めていることを認識できない
デリダアガンベンにおいて、抵抗の場所の中心部への位置移動は根本的で、敵対関係が一時休止を見出すこともなければ、衝突が逸脱を見出すこともないような現実的状況へとわれわれを連れていく。
・例外状態、永久戦争→対抗権力の主体をでなく、緊張緩和を、抵抗に焦点を合わせた人間学的な革新を提示するよう強いる。
・単独的存在の生成→マルチチュードの系譜学

B)運動と運動形象を生み出す力
 対決する能力を備えた力=マルチチュード=単独的存在の多様性のこと
・労働は協働としてあらわれ、単独的存在の総体は言語活動として現れる。
・もはや国家理性や例外状態や生権力を、革命的理性や単独的存在による抵抗や反乱や蜂起と混同する可能性は存在しない(今度はピロクテーテスが勝つ)
ミュラーはこの根本的な移行に資格を与えた
・内在性は、革新勢力の超越的な決まり文句さえも吸収した
歴史修正主義は完膚無きまでに弾劾される
・思想と行動には、自分が自由でありたい、苦しみたくない、同一性からそれた自分の実存を取り戻したいという人間の願望から逸れるような基準は不要
・だがむしろ困難は集積している。それゆえ、マルチチュードにとって演劇はいかにして可能か、群れを主体とするような演劇、ひとつの共同の目的にひきつけられた単独的存在の多様性を主体とするような演劇はいかにして可能か、と問うことができる。

C)共同的なもの
ニーチェ:人類は善への傾向を持っているか→あの道徳的傾向以外のどんな方法でも説明できないような出来事が存在するか:→革命(「善」の実践としての)
・カント:「人間本性には善への傾向と能力が存在する。政治家はだれもこのことを事物の経過にもとづいて思惟することをしてこなかった。」
フーコー:啓蒙のための戦いにおける精神の緊張のなかにも、共同的なものの意味が見出される
・共同的なものの意味は能動的にも受動的にも存在する
・演劇をつくりあげる批判的方法の基礎にも共同的なものは存在する(モムゼンのブロック)
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こうした共同的なもののプロジェクトに対しては、唯一、反対勢力がある。
→「例外状態」、<帝国>的戦争、新しい主権による反動派→これらは死の経験を確認するとともに倍増させる。
・死とは生権力の内容であり、規律と管理を排除せずに、権力の効果の保証として包摂するような内容である。
・死を与えることは、権力の手段でありつづけている。
ミュラーにおいて、演劇的なものの意味は完全に再獲得される。
・しかしそれへの内在的批判もある。:生を与えること、生み出すこと、心と臓腑のなかに革命を持つということ。
(?ミュラーにおける死の美学? cf.ベケットのピル効果→ベケット主義の批判?)
マルチチュード演劇は、抵抗と反乱の群れによる行為のうちで、人間学的な亀裂のうちで、発展する。
・演劇は今日、ひとつの存在論的な機能を持っている。