3.「俳優と観客:非物質的な労働、公共サービス、知的協働、共同的なものの構築」(2004)

ネグリの演劇論III「俳優と観客:非物質的な労働、公共サービス、知的協働、共同的なものの構築」
2004,6/13,  ハノーファー<テアター・フォルメン・フェスティバル>
0.?? ネグリ、戯曲執筆の経験より(作者・テキスト→俳優→観客)
フロベール「聖アントワヌ」:演劇的
・演劇的構築は、現実的なものを発明する主体性の冒険である
・演劇的表象は、主体性の観点から現実を生産する、物質的で客観的な掘削作業である。
・演劇のテキストは、新たな現実を構築し、その新しい次元のなかで人々の魂を結束させなくてはならない。(作者の存在論的機能)
・作者の存在論的機能は、俳優によって引き継がれる
・もし作者から俳優への存在論的潜勢力の伝達がなかったら、演劇は存在しない。
・俳優こそは演劇の中心であり、あらゆる移行の交差路で、原動力であり、思想を行為に、プロットを現実に事実上変えてしまう人物である。
・演劇は作者なしでも生きられるが、俳優なしには生きられない。(作者は俳優に包摂される)
◎上演体験より
・俳優は観客になることなしには自らを実現できない. [俳優は観客なしに成り立ちえない]
・俳優=三人を代表して演じる:1自分、2作者、3観客=マルチチュード
・ここで生み出されているのは、新しい現実であり、なにか聖なるもので(ギリシア)、あるいは喜劇的なものである(聖性と同様の神秘を表象する観客の哄笑)(ローマ、ルネサンス)。
・俳優の行為、俳優と作者との関係、観客との関係には、使命と運命との間の開かれた関係が存在している。
→ここでは演劇的関係は歴史となる能力を持っている。
→様々な生の様式のリアリズム的、象徴主義的、幻想的ユートピア的な表象となる能力、時代の定義、時代精神を表現する能力を持っている。
・生の喜劇が運命となる(ロマン主義から社会主義リアリズム)
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1.内在性の実践としての演劇
・演劇機械は外部を持たない。(中心しか持たない機械。「中国」的。)
・演劇とは内在性の神殿である:
・演劇は、作者を観客に結ぶ魔方陣の内部で、あらゆる価値、歴史、陳述を生み出す。
・演劇=「現実的なものの遊戯」
・演劇的言語活動→カーニバル的儀式→対話に特有の大食ぶりによって、外部を持たない中心へと現実を連れていく。
・言語上のあらゆる超越的なものを人間的実践のどこまでも明快な有り様のうちに平板化し集約しようという試みを表現する。
・演劇とは、内在性の実践法である。
 =この世界は外部を持たず、世界の構築と必然性はすべてわたしたちの経験のうちにあるとする、思想と確信のこと。
ポストモダニズム(後近代)→現象間の関係が循環的になっているような統一性を世界のうちに見出してきた。
  :生産と再生産が重なり合い、循環と物象化が融合
・後近代世界は、すべてを自らの論理のうちに包み込み吸収してしまう渦巻きに転化した。(資本は、労働・社会・生それ自体を包摂した)
・それ自体均質であろうとするこの渦巻きにおける様々な移行(幾何学的な場所と代数的な緊張)を定義したい。
◎空間
・演劇は空間である→内在的次元
・全体性の縁に向かって広がっていくのでなく、生の横糸としても立ち現れる内在性
→均質的ネットワークでなく、多様なネットワーク、諸々の単独的存在とその結節点の多様な交差としての。バフチンの「ポリフォニー」=声の多数性
◎運動
・内在性の内部には、運動の原動力が見出される(対話という出来事、もろもろの主体の尽きない論争、複数の生、生産しつづける機械、マルチチュード
・演劇的な内在性の空間=可動性と切断の空間。
=一体となった現実でなく、たえざる亀裂分裂、さまざまな敵対関係からなる空間。
=直接に言語活動と人間的なものに食い込み、これらすべてが演劇の概念であり形式であるということを示す、解決不可能な危機。
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・<作者?俳優?観客>関係→衝突・敵対関係→関係のなかだけでなく、それぞれの内部をも貫く。
・多様な増殖する衝突は、「総合」にも「媒介」にも達しえない。どのような段階を踏んでいくのかも知らず、どこに辿り着くのかも知らない。
ミュラー「人間的なものの全体が疎遠なものに転化しなければならない」
・しかし、すべてが疎遠になるとき、すべては共同的なものでもある。
・共同的なものが存在しないとしたら、それは可能となるような総合が存在するからであり、あるいは構築的弁証法の提案が存在するからである。
・共同的なものが存在するとしたら、それはそこにつねに批判と分離の深化と節合が存在するからである。
・敵対関係のこうした絶対性こそ、演劇を現在あるような論理的で情熱的な大いなる対話にしている。
・上演が真実であるとしたら、それを教えるのは、あの感情あるいは覚醒、痛みを伴うあの推論あるいは抵抗へのあの刺激である。
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2.非物質的労働、公共空間
・時代の変容:ポスト近代(後近代)
・労働の変容:非物質化。知的・情動的・人間関係的・言語的なものとなっている。
・非物質的労働?生政治的現実:知性と感情、コミュニケーションと情念、理性と身体が区別できない。
・この総体を労働が動員する。→知的革新を商品と身体の価値実現の基礎とし、商品の知的な価値実現能力の横糸とする。
・生が労働に就かされる。生産する生に転化している。
◎公共空間→「市民社会」でも「市場」でも「契約関係」でもない、様々な頭脳と身体をひとつの共同的な関係のなかに置きつつ、生のあらゆる関係に広がり重ね合わさっていく、そのような「生の劇場」。万人が俳優。
・創作力および知的協働としての俳優たちと観客との協働が、生を製造していくうえでの存在論的な潜勢力に転化した。
・公共空間は生の条件であり、共同的に存在することの前提条件である。
→演劇は、その新しい公共空間の、儀礼的でない、存在論的で生産的で、恒常的な指標として定義しうる。
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3.言語活動
・ポンティ:身振り=言語→「思考の羽」→「呼びかけ」・呼応   cf.ディドロ
・演劇的構造を通じて、言語活動は劇的なものに転化し、論理的情念的な一点に集約された強度と対話的緊張を見出す。
・演劇的言語活動は、言葉を発明し、それを公的対話者に委ねる。
・そして、現実的なものが終わり、未来がはじまる場所に、その言葉を投げだす。
・演劇の言葉は、生の共同的なものが、将来なにを獲得するかを提示するその瞬間に、構築される。
・あらゆるイデオロギーが終わり、全てが資本主義的包摂のなかに閉じ込められたポスト近代にあっては、このことを余儀なくされている。
(・ベンヤミン:啓示を聴く、形而上学的音響学の領域。→言語活動=「世界の本質」→言語能力を産む)
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4.俳優と観客
・俳優と観客:存在の運動の相互的な動きのなかにいる。歴史的能動的な意味での動き回り。
・来るべき世界:マルチチュードをなす単独的存在の関係が、共同的なものを探究していくなかで(共同的なもののベール?ぎ)一体化していく。
・共同的なもの→主体の言語的協働の基礎
・俳優と観客の関係:ミツバチの群れ:発話者が持続的に移動していくというイメージ
→ダイアグラム:多様で豊かな横断的形象、冬の窓ガラスの氷の形象、砂漠に風が残す形象 cf.diagram:図形で表現されたもの
→そうした条件を共同的なものとして特徴づけているのは、冷気でも乾燥でもなく、氷や砂に模様を描く出来事である。(「環境」「要因」と「出来事」の違い?)
→俳優と観客を関係させているのは、非物質的労働、公共空間、知的コラボレーション、共同的なものの構築である。
・反動派のいう「有機的統一」「調和」?規律、従属、抑圧
・反動派は儒教的。弁証法儒教的なものである。→総合と調和の称揚
・観客は弁証法的でなく、創造的である。→共同的なものを発見していく。
・俳優と観客はなにか共同的なものを構築していくにつれ衝突しあうようになり、互いに他者すなわち差異となる。
・演劇のうちに同一化作用は存在しない。
・フットライト、拍手:差異の装置→差異を持続的に固定。共同性のうちの単独性という差異を生産する。
・演劇は、神秘的で統一的な表現を持たず、あらかじめ概念化・形象化されない。
・演劇は共同的なもののうちで分離を生み出す一種の否定的な倫理神学 「分離」→過剰でありかつ生産的
・観客は音楽よりもはるかに演劇のなかでこそ俳優になれる
・共同的なものは、観客の経験のうちで固有な仕方で反復される
・俳優が演じる表現上の機微の豊かさは、常に多様なコミュニケーションを基礎としており、個々の主体が表現するものには還元不可能である。
・演劇は、観客が、俳優との関係において構成する喜劇的・悲劇的・双数的な関係と大いなる誠実さをもって同一化するにしたがい、ますます演劇らしくなる。 
 →[共同的な生の条件のモデルとしての演劇]→演劇は生政治的な機能をもつ

5.公共サービスと興行関連非正規従業員組合
・演劇は公共サービスである。
・仏・アンテルミタン・ド・スペクタクル興行関連非正規従業員組合
・観客は作者や俳優の同盟者になるだけでなくその支援者にならなければならない。
・上演従事者は、知的労働者の先取りである。
・演劇労働者は、世界を認識しながら運営し、概念を協働的に構築するモデルを、喜びを喜劇に変換し、人生を悲劇として寓意化したりなどの上演の通じて、先取りしてきた。→こうした先駆性、非物質的労働の先取りが、この職業に栄誉を与えている。
マスコミュニケーション・言語活動のフェティッシュな均質化の時代にあって、劇場は、観客としてのわれわれの欲望を探しだす神殿である。
・真理の機能、演劇の唯物論的証言を攻撃したり否定したり弱体化させることを望むものがいるとすれば、それは許しがたいこと。
・というのも、この演劇という表現上の世俗的経験こそは、今日、富を生産するあらゆる労働のモデルとなっているから。
・俳優は上演しながら観客となり、観客であるマルチチュードは自分が俳優のネットワークとなっていることを見出す。単独的存在と差異が同一の覆いのもとで共同的なものと戯れている。
・演劇という仕事は公共サービスであり、それは支援されお金を支払われ、再生産されねばならない。なぜなら演劇という仕事はこの世界の再生産の基礎そのものを構成しているからである。このことを興行関連非正規従業員組合は教えてくれた。

6.民主主義のモデルとしての演劇:マルチチュード
ネグリ&ハート『<帝国>』での「民衆」概念批判    cf.「民衆people」・「公衆public」・「大衆mass」
・人民・民衆popolo概念:「主権者=君主からみて統一された人口」「もろもろの臣下からなる」p130 
・近代において人民は「臣下」であり「主体」ではない。subject
マルチチュードは、単独的存在の多様性として、自らが存在するために主権者による媒介など必要としない総体であり、下から生まれてくる概念である。
マルチチュード→共同的なものを生み出す。市民は臣下でなく主体となる→潜勢力、自身を憲法へと構成する権力として現れる。
・私的なもの(個人主義的なもの)と公的なもの(国家的なもの)を超えたところの、共同的なもの。
マキャベリスピノザマルクス:一者でなく多数者の理論:
 →多数者の側からの一社の管理運営理論でなく、一者に対抗する多数者の自主管理の理論としての民主主義
 →このような民主主義は、つねに開かれた関係、つねに変容の途上にある装置、諸々の主体が闘士として立ち現れる領域に転化しうる。

・演劇(その他のコミュニケーション芸術)も、近代においては、公衆と民衆とを混同してきた
・様々な前衛も、「公衆」との形式的な関係を変えることはできなかった。
・極端で革命的な内容によって公衆の不透明性を打ち破ることはしてきたが、既成のコミュニケーションの二重性の問題(?)を解くことはなかった

・しかしこのマルチチュードという概念からすれば、公衆は様々な主体からなるマルチチュードとなりはじめる。
・演劇者は、公衆を、現役の民主主義の闘士(デモクラット)と看做さなくてはならない。
・政治批判のパラダイムとしての演劇
・民主主義は代議制的なものではありえない
・俳優と公衆は互いに絶えず接触しながら、様々な差異と行為と戦闘と構成作用からなる共同性を築き上げている。
・演劇は下から生まれる民主主義をわれわれに教えてくれる。
・民主主義においても、演劇同様、観客はひとりの政治的主体である。