チベットはチベットである(承前):対話なき絶対主義

 中国政府および政府公式見解を無批判に支持するひとびとは、チベット問題についてつねに「それは内政問題」と定型をもって答える。
 当然のことであるが、チベット問題は「国際問題」であって、「内政問題」ではない。それは異民族間の低強度紛争であり、双方で合意がとれていない以上、チベットは中国の領土に帰属していない。チベットは、チベットである。それは中国の一部ではない。
(後述するようにこの見解はダライ・ラマ14世の見解とは異なる)
チベット民族の大多数が、中国政府の植民地主義およびその武力による制圧に承認できない以上、中国政府は退き、まずは自治を認めるべきである。
それどころか、ダライ・ラマ14世は、経済的政治的枠組みについては「チベット自治州」として中国に準じ、承認するといったうえで、宗教的・文化的・教育的自立を訴えている。これほど穏健な提言すら、この恐怖政治は認めない。そして、アナクロニックな陰謀理論で事態に対処している。
一時は「人民戦争を戦う」と妄言した。
ここには一片の「義」もない。妄想と暴力への偏執だけが見える。一説には、中国政府の過剰なまでのチベットへの欲望の実体(対象)は、その資源にあるという。たしかに、そうでもないと説明がつかないほどである。
 
しかしそうしたことよりも私が問題化したいのは、「それは内政問題」というこの発話行為についてである。
この発話行為の意味は、断定であり、対話の遮断である。つまり、「それはあなたの問題ではない」ということであり、それはまた「わたしたちの問題に口出しするな」ということである。試みられた対話はこうして遮断され、終わる。
このような対話の遮断と批判の封鎖を金科玉条とするような主体形式に対しては、そのことを伝えることすら難しい。これは日本の官僚に多くみられる事態である。

 現在の中国社会に、言論(批判)の自由も、対話による問題解決という選択肢もないことは、たとえば、金盾システムのような恐怖政治的な検閲システムの存在が傍証することである(その構築に日本円で780億円もの公的資金が投資されたという金盾システムが実在しないと主張できるひとはいるだろうか)。つまり対話および批判する権利そのものを中国国家は認めないのである。
 もちろん日本にも自発的検閲システムつまり自警団(ネット右翼のことです)は多くいる。だが、そうした自警団に、さすがに780億円も投資されてはない…。

 国民が国家、為政者を批判できないという状態については、絶対主義とも全体主義ともいいたくなるものがある。もっとも、この事態は、程度こそ違うとはいえ、新自由主義社会においても存在する。