既存共産主義の終わりについて

 このような統治が、好ましい体制であるはずがなく、あるいは先走っていえば、これは、スターリンの恐怖政治と同様、共産主義の構想に対して恥辱をすら与えている。
 もちろん、既存社会主義の実践を一顧でも反省すれば、もはや共産主義という理念はほぼ塵埃となったといわざるをえないのだが、それでも共産主義がひとつの夢、ひとつの理念、ひとつのユートピア運動の実践であったということを忘れることはできない。その文脈を忘却した結果のひとつが、もうひとつの恐怖政治でもある新自由主義の無条件の賛美である。
 また他方、現在も共産主義が無条件に有効だと考えるひとびとがいるとすれば(そう言明するひとを私は見たことない。私が見たことのあるひとびとは、歴史的反省を行わないまま、かつての夢にしがみついているという消極的なものだった)、それもまた新自由主義と同様に、自己の反省(歴史的反省)を行わないどころか、歴史を歪曲しているともいえる。

 それはともかくとしても、今日、共産主義は可能かと問うことすらできないような状況があるとすれば、実際にはそれは新自由主義国家(米国や日本)ではなく、金盾システムを持つ自称共産主義国家である中国だろう。
私は中国の「共産主義」は、カール・マルクスらの初期の共産主義構想とはもはやなんの関係もないと考える。これはソビエトにせよあるいは他の既存社会主義国家のほとんどに対してもそう思う。
 もっとも、初期共産主義構想における革命理論(プログラム)の根本的な欠陥については以前も書いたが、まずは革命後の統治における独裁制であり、ほぼ同義といっていいが、形式としての「全体主義」である。「プロレタリアート独裁」というプログラムを実践するにあたり、全体主義ないし恐怖政治という形式しかなかったというのも、変な話ではあるが、分かる。だが、とりわけスターリンはやりすぎた…

 まあこのへんの話も、いずれまた別の社会が構想されるだろうということで終わるので、悲観的になるのもまた愚かなことである。