東アジア的統治形式としての儀礼的権力と超越主義

 中国政府の見解をみていて思うのは、東アジア的な官僚制のことだ。見解はひどく儀礼的で、対話の隙を与えない。日本の官僚の意見陳述においても、よく似たものを見ることができる。
儀礼的なモノローグにせよ、あるいは新自由主義的な決断主義にせよ、ともにある「力」を前提としている。(ラッセルの権力論参照)
しかもその「力」は、形式的にであるとはいえ、実体視されている。
しかし、社会関係より切り離されたところに「力」など存在しない。「力」は単独で存在するわけではなく、それは必ず社会関係において成立するものである。ジル・ドゥルーズが「力の流れ」といい、流動性に重視したのは、このことを踏まえてのことと思われる。
「力」が愚かしいのは、このような本質としての社会関係を見過ごす、素朴な超越主義であるからだ。
 こうした超越主義は、どれだけ成功し、またどれだけそれが繁栄を築けたとしても、必ず崩壊する。なぜなら、人間社会から「抵抗」の契機を奪うことなど、できないからだ。