植民地主義と民族自決問題

 今回に限らず、これまでの中国のチベット政策は侵略・植民地統治以外のなにものでもない。
ただ、植民地統治については、それが植民地主義であるからという理由だけで非難することはできない。ここでいうのは、武力による侵略の肯定では毛頭ない。あくまで植民主体と被植民主体(このような表記が正確かどうかは今は措く)の双方のあいだで、合意がとれている限りにおいてのことだ。

日本で喩えてみる。例えばアイヌや沖縄ひいては現在日本国に帰属している地域において、経済的であれ政治的であれ文化的であれ社会的にであれ、日本国よりの独立を願う気持ちがその地域の市民の多数派にある場合、私はそれを承認するほうがいいと考える。もちろん、無条件に、ではなく、あくまで双方の対話においてである。
アイヌや沖縄に対して近世日本(行為主体はそれぞれ松前藩薩摩藩であるが、責任主体は幕府である)が行ったことは植民地政策であり、侵略であったことは疑いえない。
 以来、様々な経緯を経、現在、沖縄独立論については、まだ沖縄市民の圧倒的多数によって選択されてはおらず、またアイヌ独立運動に対してはあまり耳にしない。
 これは誤解をおそれずいえば、現在は双方において一定程度、合意に達しているといえる。無論、沖縄に関しては独立運動もさることながらなにより在日米軍問題の方があまりに大きく切実な問題であるからという状況もある。
 
 素朴なロマン主義に他ならない自称「サヨク」な方々は、植民地主義はなにがなんでも無条件に悪であり、それゆえ「サバルタン」は「テイコウ」すべきだ、と歌う。こうした文化左翼に多く見られる幼稚な発言は無視すればいいのだろうが、あまりにふがいないので触れておく。(こうした文化左翼どもは自身が帝国主義者と同じ身振りをしていることに気がつかない場合が多い。まっ、「文化右翼」の素朴さは文化左翼の二乗かそれ以上であろうが)
そもそも文字通りの意味においてであれ、象徴的な意味においてであれ、植民地化からひとははたして逃れうるのだろうか、あるいはそれなしに社会制度が成立しうるのか。
これは現状から考えると、非常に怪しく思われる。広義での植民地化から人間が脱却しうると考えることは、いまだ夢の領域に属している。つまりそれはユートピアを構想することに等しい。
 むろん、だからといって、植民地化を無条件に肯定することは、たんなる権力妄想である(中国政府)。だが、ひとが植民地化ないし権力作用から無条件に脱却できると考えることもまた、幼稚な妄想である。
 できうる限り植民地化に抵抗し、それをすこしでも抑え、あるいはそれを作り替えていくための努力をするしかないのはたしかである。そして、ユートピアの構想をすることも必要ではある。なぜなら、ある理想的な状態を構想すると、その状態をひとつの理念として、そこから現存する社会を批判していくことができるからである。
 「民族」という観念よりも、より普遍的な「世界市民」の観念を上位において、民族主義的な発想を牽制することがある。私も、基本的にはそれを選択したいと考える。
 だが、チベット問題のような問題において、「民族」が概念的なものでなく、現実的で実体的な線引きの根拠となるのであれば(チベット社会におけるチベット民族と漢民族との階級的差異および両者を区分する線など)、やはり民族自決は一時的な原則としてあるほうが好ましい。
 もちろん、民族自決の原則とナチズムのような過剰な神話的民族主義との間には、難しい局面があるとはいえ、その違いは明確にしておかなくてはならない。