「人民」と「民の声」

 中国政府は一時は「人民戦争」だともいった。ここでいう「人民」とはむろんクリシェであって、意味はない。どころか、実際の民衆とはなんの関係もないし、「民の声」ではない。
 「民の声」がどこにあるかは一目瞭然である。「民の声」はチベットにある。

「人民戦争」と口走った中国当局のこの発話行為には、おぞましい帝国主義しか見えない。
長年、米国の帝国主義を睨みつづけた中国のこの身振りには、米国の身振りの転移すら思わせるものがある。とはいえ、巧妙に主体を隠したプロのテロリストによる象徴的な高層ビルへの「完璧な」反撃と、主体が特定可能な民衆(暴徒)による暴動とを同列にすることはできない。
暴動に対しては、ロス暴動でもなんでもいいが、その暴動にはつねに背景がある。なぜ暴動が起きるのか。なぜそこまでひとびとは不満を持ったのか。一揆でも同じことだ。
 中国政府は、陰謀理論によって答えとするから、暴動の原因がどこにあるかが分析できないでいる。