ガルダンのジュンガル帝国

 元ラマ教の僧侶だったガルダンは、ダライ・ラマの後押しを受け、還俗し、オイラト族の一部族ジュンガルの首長となり、のち全オイラトを支配する。
 ガルダンはチベット仏教の守護者として、のち、タリム盆地のヤルカンド・ハン国、タシケント、サイラームを奪取。
東方モンゴルのハルハ部との抗争によって、ハルハ部が清(康熙帝)に救援を求めたため、清とガルダンとはモンゴル高原の支配権を巡って、全面戦争となる。
ガルダンは逃走中に死亡。
ハルハは、清に服属し、オイラトは清に朝貢することになる。

しかし、ジュンガル部族はその後も抵抗をつづける。
清は、1723年チベットに、1754年にはジュンガリアに出兵、グシ・ハン王朝とジュンガル帝国をともに滅ぼす。
その後、さらに抵抗を続けるジュンガル部族に、清の乾隆帝は、殲滅政策をとる。清軍が持ち込んだ天然痘により、ジュンガルは絶滅したといわれる。

ジュンガルが支配していた東トルキスタンは、新疆と呼ばれる。