清以後のオイラート

のちに清が崩壊しモンゴル国がボグド・ハーンのもとに独立を宣言すると、ホブド地区のオイラト諸部はモンゴル政府に従い、モンゴル国編入された。モンゴル国アルタイ山脈方面のオイラトをも併合しようと軍を派遣したが中国によって阻まれ、この地方は新疆省を経て新疆ウイグル自治区編入された。
中央チベットオイラト人は清朝が滅亡するとチベット政府の統治に接収され、清朝軍の残党をラサから駆逐するのに功績のあったセラ寺の寺領となった。彼らはチベット社会への同化が進み、1950年の段階で、人口は20000人弱、オイラト語はいくつかの単語を操れる程だった。

他、トルグート(現在カルムイク)など。

オイラト人とハルハモンゴル人

モンゴル国モンゴル人民共和国となると、オイラト人たちは西モンゴル人と位置づけられ、多数部族であるハルハに対する少数部族として扱われたが、文化的にはハルハ・モンゴル人への同化が急速に進んだ。

・新疆のオイラト

新疆のオイラト人は、圧倒的に少数派であり、漢民族ウイグル人、カザフ人などとの混交が進んでいる。その後、内モンゴルのモンゴル人との民族意識の一体化が進み、西モンゴル人かオイラトモンゴルと呼ばれる。

ざっとペースト編集したが、まあ、なんという大変な歴史的背景だろうか。
こうしたオイラートの歴史を考えると、たんに「少数民族問題」などとはいえないのはもちろん、ユーラシアではいまもこうした歴史的文脈のなかにあるわけで…。
 ちょっと、コメントしようがない。知らないことが多すぎる。

が、先のチベット人学者のいう「元」はもはや違いますね。翻訳の問題かもしれないが。

しかし、まあ、こうしてみると、オイラート人チベット人とは共存できたのだろうが、漢民族とはまったくいい出会いをしていない。
 強いていえば、吐蕃王朝の時に唐と軍事的に対等にたてた時代があったというくらいか。

中国も大変な国であるが、もしかすると、清の時の対オイラート政策の記憶の痕跡があったり、あるいはオイラート人の亡霊が現前したりしているのかもしれない。
 
 たしかにこれだけの歴史を踏まえると、簡単に独立などとはいえない、なんというか、ユーラシア群雄割拠みたいなことになってくる。
 が、それでもやはり現時点では、対話しかないのもたしか。

強硬姿勢くずしそうにもないが。