「ジャパニズム」としての「小国主義」

 そういう意味で、日本至上主義という意味ではなく、日本の理念を構築するという観点からの「日本主義=ジャパニズム」が構想されなくてはならない。
 それのひとつが、石橋湛山サミュエルソン経由で私が現在考えている「小国主義」である。それは「反帝国主義」である。
 いわゆる武士道なり禅なりでもいいのだが、日本には内省の思想が潜在している。これはさまざまな文脈で国際的にも要請されていることであるし、私の考えでは、この「小国主義」こそが、日本の道であると思え、それはたとえば戦争責任論すらも内包しうるものだ。
 中国脅威論などはこの「小国主義」からすれば、ほとんど無視しえる。不安に思う方々は、侵略されたらどうするか、中国の覇権にどう対処するのか、という。
 戦争にかりになったら、やるしかないだろう。それくらいは覚悟しておけばいいだけの話だ。もちろん日本からしかけることはあってはならない。あくまで、しかけられたら、の話だ。問題は、戦争を回避する外交技術を鍛えることだし、それには強い論理が必要だ。
 ここでいう「強さ」とは、武力で制する「大国主義」のそれではまったく次元の異なるものだ。
 おそらくそれは、国際法にも準えられるような、「法」であるべきだろう。

そうしたことを踏まえれば、なにをすべきかはおのずと見えてくる。国内問題の解決であり、日本社会の質的向上を目指す政策をあらゆる観点から実践していくことだ。エネルギー問題、食糧問題、経済的政治的自立、国内の社会システムの進化、などなどである。ちなみに私がこれまで批判してきた様々な連中はすべて、こうした観点による。禁煙ファシストなんて、単に無法な、「ドキュン」であるし、あるいは「国賊」とすらいいたい泥棒官僚や、社会や公共性のことを配慮しない、そのばしのぎの上古中世的な政策意識など。
 
 戦争を永久に放棄するから、「弱い」のでは、決してない。うえに描いたような戦略がないから、「弱い」のである。そういう意味では、私は憲法などはいくらでも変えていいとは思うが、9条はそのままでいいだろう。だが、あの「憲法絶対主義」は「法」を原理主義的にとらえ過ぎている。あと50年もすれば消えるだろうとは思うが。

 つくづく北欧やスイスはモデルとなると思う。軍備問題にしても、必要なのは「防衛」である。もはや他国を「侵略」するための軍備は日本は持てないし、持つ必要もない。再びアイスランドを引けば、警察と自衛隊とは統合してもいいような気もする。自転車に乗ってパトロールをするのもいいのだが、すでにそれで対応できていない事件も多い。
 最近は聞かないが、歌舞伎町でのマフィアの紛争だって、ある意味で「市街戦」だ。そういう市街戦に対応できる能力は、やはり軍事能力ではないか。
 収賄で買収されるような警察はもはやたんなる税金の無駄使いと思われる。そういう意味では、自衛隊をもっと効率よく社会内でも使用した方がいい。さしあたっては機動隊と自衛隊の統合ということになるだろうか。

 もう平和ボケのサヨクも必要ないし、たんなる不安神経症的ヒステリーであるようなウヨクも必要がない。