メタフラシス
ラクー=ラバルトの「メタフラシス」、前にもこのブログで書いたが、ノートをとりはじめてみよう。
p16「ヘルダーリンにとって悲劇的なものとは、カントのいう形而上学的衝動、<理性>の衝動そのものである」
「悲劇的過ち=ヒュブリスとは、形而上学の行き過ぎ、すなわちカントが確立した人間の有限な条件の限界への侵犯トランスグレッションにほかならない。
「オイディプスは眼がひとつ多すぎる」とヘルダリーン」
p19「ヘルダーリンは、ギリシア的素朴さのうちに、トランス(エクスタシー脱自我…)への傾向と、神的なものと一体化しようとする欲望とのあいだの野蛮、凶暴、神秘的激昂をかぎつけている。
ギリシア的狂気。プラトンのいう「神からの狂気」=マニアー」
とここまで、以前線引きしていたところをメモったら、マニアーといえば、パイドロスと思って註を見ると、まさにパイドロスに出てくる話であった。あれは恋愛の話しが発展していったと思うが、今年になってはじめて「パイドロス」読んだのだが、これがむちゃくちゃ、面白い。19位の時に、「饗宴」読んで面白かったのだが、以降、アドルノだのドゥルーズだのフーコーだののせいで、とんと読めないままだった。
いや、まあもう本は気長に読まんとね。
で、メタフラシスについてメモとると言いながらも、実はメモりたいのは、「近代人の模倣」の方なのだ。なぜだかは知らないが、ラクー=ラバルトの未来社の本は、読みやすい。まえも、「虚構の音楽」「経験としての詩」も、一気に読めたのだった。で、ナンシ−はいうと、これが読みにくい、ついていけない、でもついていけないなりに読んでると、すごいこと論じている。でも、読みにくい。文体がそうなんだろう。
ラクー=ラバルトの方が、読み手としては、いい。
しかしこんなぼやぼやしながら読んでたら、読めないだろう、でも、これくらいの速度でいいと思う。むかしのようにがっついて読んでも、疲れるし、あの勢いって、学生は持てるが、もう持てない。といいながらも、乱読はくせづいてしまった。
でも乱読はいい。乱読なんてとかいうやつもむかしはいたが、さすがに10年以上もぼくが続けているから、もう誰もいわなくなった。
頭がしびれて、どうでもよくなってきている。読みたいのは。