思弁的なるものの中間休止

「思弁的なるものの中間休止」『近代人の模倣』所収、である。

バタイユ以降、弁証法、つまり死についての理論は、演劇を前提としている」

ここでいう弁証法とは、バタイユを経由したヘーゲルであり、
○運命と死への抵抗、あるいは、支配。
○否定的なものの規定。
○否定性を労働/生産力へと変換すること。
○矛盾をひきうけること。
○「真なるもの」あるいは「主体」のauto-conception自己ー概念作用?/自己ー懐胎。
○絶対的な思考の訴訟過程そのものとしての「止揚releve」、

である。
つづく。

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フリードリヒ・ヘルダーリン(ヘルダリーン) Friedrich Hoelderlin 1770-1843

■ドイツの詩人。

ゲーテによって、その主観性と表現量の過剰を批判され、シュレーゲル兄弟、ブレンターノら一部の積極的な評価を除いて、生前はほとんど評価されなかった。その後、ニーチェゲオルゲらによって読み継がれ、とくにハイデガーによって、「詩人のなかの詩人」といわれ、その存在論の中核において、新たに読み直された。また、ベンヤミンアドルノブレヒトらは、ヘルダーリンソフォクレス劇翻訳注釈における逐語性、中断Caesurなどの概念に注目し、独自に読み直した。

戦後も、ツェラーン、ブランショアンドレ・デュブーシェデリダハイナー・ミュラーストローブ=ユイレ、フォルカー・ブラウン、ジャン=リュック・ナンシ−、ラクー=ラバルトなど、いまなお多くの思想家、表現者を刺激し続けている。

■年譜

1770年、シュヴァーベンのラウフェン生まれ。2才の時、父、死去。4才の時、再婚した母とニュルティンゲンに移住。

1788年、テュービンゲン大学神学校に入学。ヘーゲルシェリングと交流。

1789年、フランス革命開始。

1790年、論文「ギリシア人の芸術の歴史」「ソロモンの箴言とヘシオドス『仕事と日々』間の類例試論」。カント、シラー、ヴィンケルマン、ライプニッツプラトン、ヘルダー、ハインゼなどを読む。とくにヤコービスピノザ書簡」を集中して読む。

1793年、「ヒュペーリオン」の草稿を朗読。大学卒業。プラトンに感銘。

1794年、家庭教師として働く。詩「運命」。カント研究続行。イェーナに行く。フィヒテの講議を聴講。「断片ヒュペーリオン」、シラー編集「ノイエタリア」に発表。95年、辞職。イエーナに戻る。

1796年、フランクフルトにて銀行家ゴンタルト家に家庭教師として再職。

 4月、シェリングヘーゲルと「ドイツ観念論の最初の体系計画」(〜97)。

 5月、ゴンタルト夫人ズゼッテとの運命的な愛。押韻詩「ディオティーマ」

1797年、「ヒュペーリオン」出版。悲歌「放浪者」

1798年、辞職。フランクフルト郊外ホンブルクへ移住。ズゼッテとの関係、続く。

1799年、「エンペドクレス」。詩誌「イドゥーナ」企画、挫折。「あたかも祭りの日の朝」着手。

1800年、5月、ズゼットと最後の逢瀬。シュトゥットガルトへ転居。

 頌歌「沈み行くがいい、美しい太陽よ…」。悲歌「メノンを悼むディオティーマの哀悼歌」「シュトゥットガルト」「故郷」。ピンダロス「勝利歌」翻訳開始。

1801年、スイスのある旧家に過家庭教師として招かれるが、数カ月で解雇。「ライン河」「ゲルマーニエン」「パンと葡萄酒」

1802年、ボルドーで家庭教師。四ヵ月ほどで辞める。ズゼッテ死去。ニュルティンゲンに戻る。夏、発作。

ソフォクレス翻訳。「パトモス」「イスター」

1803年、「ヒーロン」「ムメモシュネー」「生の半ば」。ソフォクレスオイディプス」「アンティゴネー」注解つき翻訳。

1804年、図書館司書。

1806年、テュービンゲン大学病院精神科入院。

1807年、回復のみこみのないまま退院、愛読者であったテュービンゲン指物師エルンスト・ツィンマーの家に引き取られる。以後、36年間、この家に住む。

1830年、詩「眺望」

1832年、「春」。季節詩。

1837年、「眺望」第ニ作。

1843年、「眺望」第三作。カタル(風邪)。6月、胸水腫のため死去。享年73才。